戦争を体験した人やその意思を継ぐ人、それぞれの思いをシリーズでつなぐあなたの623。今回は沖縄戦の直前に生まれ、当時0歳で戦争を体験した元北谷町長の野国昌春さんです。幼い子どもも容赦ない戦禍にさらされる悲惨な戦争の実相を今に伝えたいと、ともに戦場を逃げた姉から聞いた過酷な戦争体験を話してくれました。



米軍機が飛び交う嘉手納基地を静かに見つめる一人の男性。元北谷町長の野国昌春さん。フェンスに覆われたその先に、80年前、野国さんが生まれた場所があります。

▼元北谷町長 野国昌春さん(80)
「このゲートから1キロ先くらいに我々の生家がある。旧字・上勢頭があった。そこでまとまって生活していたんだけど、戦争で散り散りばらばらになった」

沖縄戦の直前、1945年3月9日に北谷町で生まれた野国さん。母・ツルさんは、我が子をおぶりながら戦場を逃げ惑いました。



▼元北谷町長 野国昌春さん(80)
「生まれて1か月もしないうちに米軍が上陸して逃げまどった。栄養も不足しているからおっぱいも出たか分からない。聞かされた中では、母はやせ細っていたんじゃないかと。姉は栄養失調で亡くなっていますから」

壕に避難したものの、生まれてまもない赤ちゃんは空腹で泣き続け家族は壕を追い出されてしまいます。母と姉と共に戦場をさまよう中、銃弾が野国さんの右足を貫通します。



「防空壕に隠れていたが、日本軍に体よく引き出され、さまよっているうちに銃弾があたって、僕の太ももから母親の手の甲に貫通した。数センチでもずれていたら、母親も僕も命はありませんでした」

卒業式ができないまま戦場に駆り出された姉 30年後に届いた卒業証書



母と野国さんはすぐに野戦病院で手当てを受け命に別状はなかったものの、沖縄戦では2人の姉を亡くしました。当時3歳だった五女・昌子さんは栄養失調で、学徒動員されていた長女・春子さんは、南風原の陸軍病院壕で亡くなりました。

卒業式ができないまま戦場に駆り出された春子さん。卒業証書が届いたのは、終戦から30年後でした。

「僕は80年前に生きて今の平和な時代を生きているんだけど、姉たちの人生が全く戦争で一色で亡くなって、生きていればどういう人生を送れていたかなと思いますね」

幼い子どもであっても容赦なく巻き込まれる戦禍の現実。今も世界で多くの子どもが戦争の犠牲となっている現状に、心を痛めます。



「戦争になってしまったら、ウクライナやガザの戦争を見てわかるように、軍事施設だけではなく民間施設もどんどん攻撃される。結果として、民間人や子ども、赤ちゃんまでみんな死んでいく」

野国さんは80年前と今を重ね、あの悲劇を繰り返してはいけないと訴えます。



「子どもたちがグラウンドでスポーツをしている、公園で遊んでいる。平和であればこそできること。やはり戦争はあってはいけない。二度と繰り返してはならないという思いです」