3日に亡くなった「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さん。多くの日本人に愛されたその理由は何だったのでしょうか。
惜しまれる「記憶の長嶋」活躍の軌跡

6月4日、長嶋さんの自宅を松井秀喜さんや高橋由伸さんなど巨人のOBらが次々訪れ、別れを惜しみました。
東京・稲城市のジャイアンツタウンスタジアムの記帳所にも多くのファンが訪れました。

ファン
「嫌なことがあっても、あの笑い顔を見ていると忘れちゃう」
「ミスタープロ野球」と称された長嶋茂雄さん。
日本中から愛されたスーパースターは、どのように生まれたのでしょうか。
東京六大学野球のスターとして1958年、巨人でプロ野球デビュー。
テレビが日本中に普及する中、人々の娯楽はお茶の間でプロ野球をテレビ観戦することでした。
そうした時代、長嶋さんのプレイに人々は魅了されます。

華麗な送球は歌舞伎の所作から着想を得たといい、豪快なスイングでヘルメットが飛ぶよう、あえて大きめなものを被ったといいます。「記録の王」に対し、「記憶の長嶋」と評されました。
長嶋さん(1958年)
「プロともなれば、もちろんチームのためもあるけど、自分のためでもある。自分さえ一生懸命やれば、チームのプラスにもなる」
移動先では、バスの外からも、ファンからサイン攻めになっていました。
当時の子どもたちが好きなものといえば「巨人・大鵬・卵焼き」。少年野球チームでは、この子もあの子も背番号「3」。
その頃、日本は高度経済成長を果たし、世界2位の経済大国としての繁栄を謳歌しました。巨人も1973年にV9を達成しました。その象徴的存在が長嶋さんでした。














