被爆当時14歳だった山口仙ニさん。
長崎工業1年の時、動員学徒として働いていた爆心地から1.1キロの三菱兵器大橋工場で防空壕堀りの作業中に被爆。全身に重傷を負いました。
その日の夜、救援列車で大村海軍病院へ運ばれます。40日間死線をさまよった末、一命を取り留め、翌年3月、郷里の五島玉之浦へ。同年5月復学。
昭和26年3月卒業後、父親の饅頭店を手伝った後、天ぷら製造、建設労働者、美容院経営、建築士などを転々。
一方、長崎原爆青年乙女の会や長崎原爆被災者協議会の活動を通じて被爆者の援護と核兵器の廃絶を訴え続けました。(1991年撮影)