
◆濵村孝さん
「本当に、何回も自分とキャッチボールをやるんです。普通はファースト→セカンド→ショート→サード→ピッチャー…と1周で返すんですけどね。そうしたら、長嶋さんと僕が何度もキャッチボールするのを他の野手が見ていて、怒られるんですよ、僕…。『おまえ、大概でやめんか!』という…。ボール回しは1~2回でいいのに、長嶋さんから何回も返球が来るわけ。そんな思い出もあります」
“スーパースター”だった長嶋さんが、たまに試合に出る“1軍半”の選手だった自分と、試合中に何度もキャッチボールをしてくれた…。時には、周りの選手から“嫉妬”されていたそうですが、それだけ、長嶋さんが濵村さんへ“特別な信頼”を置いていたことが伺えます。
濵村さんは、長嶋さんの「ある言葉」が思い出に残っているといいます。それは、球史を騒がせた「黒い霧事件」に関連するエピソードでした。
「黒い霧事件」は1969年~71年にかけて相次いで発覚した事件で、複数のプロ野球選手が、敗退行為につながる金銭の授受=“八百長”に関与したのではないかと疑われました。関わったとされる選手には永久出場停止(追放)などの厳しい処分が下され、球界だけでなく社会全体に大きな衝撃を与えました。この事件では、濵村さんが所属していた西鉄ライオンズの選手も処分を受けています。
◆濵村孝さん
「巨人時代、広島に遠征に行った時、試合が雨で中止になったんですよ。そうしたら長嶋さんに『今日、空いてるから』と食事に誘ってもらって、食べに行ったんですね。その時、長嶋さんが『あのとき(黒い霧事件)の状況は、どうやったんだ?』って僕に問いかけてきて…」
◆濵村孝さん
「僕は『永久追放になった選手がコミッショナーに呼ばれて、そこでの応対がちょっと悪くて、それで永久追放になった』と話したんです。『本当はコミッショナーも、そういうことをしたくなかったんです』と。そしたら長嶋さんが、『やっぱり、日頃の生活態度とか、そういうのは大事だ。君もそういうのに気をつけて、これからやっていきなさい』と言ってくれましたね」
自らが世間から“スーパースター”ともてはやされても、決しておごらず、ひたむきに野球と向き合ってきた長嶋さん。その“人間性”を持ち合わせていたからこそ、“ミスター”は大勢の人を魅了し、愛されたのかもしれません。