動員学徒18人が亡くなった大分市の空襲から21日で80年。遺族らが犠牲者を追悼し平和への誓いを新たにしました。
大分上野丘高校の敷地内にある慰霊像には、高校の前身である旧大分中学の動員学徒で戦争の犠牲となった生徒たちの名前が刻まれています。
太平洋戦争末期の1945年4月21日、アメリカ軍の空襲により大分市岩田町の軍需工場で働いていた動員学徒18人が命を落としました。
80年の節目となる21日、慰霊像のもとに遺族らが訪れ、祈りを捧げました。大分市の新井川久恵さんは14歳だった義理の弟を亡くしました。当時の様子は生前、義理の母が語っていたといいます。
(動員学徒の遺族・新井川久恵さん)「バラバラに体がなって大分川は地獄のようになっていた。そうこういうことを学んで二度と戦争はしてほしくない」
一方、慰霊の日を前に4月14日大分上野丘高校の有志が慰霊像とその周辺の清掃活動を行いました。各クラスの代表やボランティアなど100人を超える生徒が始業前に集まり、たわしやスポンジで像を磨き上げました。
(生徒)「過去のことにするんじゃなくて、未来につなぐことが大切だと思い、参加しました」「同じような世代の学生が亡くなったという事実が信じられないというか二度と起きないといいなと思う」
上野丘高校では清掃活動を通じて生徒たちに悲惨な歴史を伝え続けています。