「生きがい」でもなく

野路:「天年」という考え方に則って人生を全うするには、何か「生きがい」が必要でしょうか?

磯野:実は「生きがい」というのは日本語独特の言葉で、英語に訳そうとすると、なかなか訳せないんです。マシューズ・ゴードンという人類学者が「生きがい」について調査をしたことがあるくらい、独特なニュアンスを持つ言葉です。新聞の広告欄ではよく、「◯◯すれば健康になる」とうたう本が紹介されています。至る所で、健康が生きる目的であるかのように掲げられている社会なので、「健康」といえば「生きがい」、「生きがい」といえば「健康」に結びつけたくなる気持ちもわかります。ですが、なぜ日本に「生きがい」という言葉が存在するのか。数百年前までは「健康」という言葉は存在せず、「天年」を全うできるよう養生しようという考え方があったことを踏まえると、ウェルビーイングという概念の見方が少し変わってくるのかなと思います。

野路:どう生きて、どう死にたいかというのは本当に人それぞれだと思います。社会のシステムが、一人ひとりに個別に寄り添うのは難しいにしても、「こういうパターンじゃないと死ねませんよ。幸せじゃないでしょう?」というのではなくて、「そういう生き方も許容できます」といえる社会の方が、全体のウェルビーイングに近づいていくのかなと感じました。

小野寺:「正義」というものが、社会から押し付けられるのは問題かなと思います。「正義」はそれぞれ皆、自分の中にあって、人とぶつかることもあるわけですが、「100 対0」みたいな感じで、「これは正義だ」と、社会の方から押し付けられるのは嫌ですね。「盗人にも三分の理」といいますが、それぞれ自分なりの「正義」は持っているわけですよね。ただそれが 一つに固まって、「これをやらなきゃだめだ」「お前は何をしてるんだ」とならないことを、社会全体が許容できるといいですね。「私は正義を振りかざしているのではないよね」と、自分自身を客観視できるようになることが大事ですね。

磯野:医療人類学者としては、ウェルビーイングを取り立てて追求しなくてもいいと思います。ただ、非常にシンプルですが、かかりつけ医を見つけておくことは大切だと思います。日本では制度上、自由に、いきなり大学病院を受診することもできてしまいます。しかし自分の体が、他の人たちとの関わり合いの中でできていることを踏まえると、自分の人生の中にお医者さんがいた方がいいんです。そのお医者さんと、時間をかけて信頼関係を作っておくことを、意外と人々は忘れがちな気がします。

お医者さんにはさまざまなタイプの方がいて、怒ってくる人、コロナ対策もガチガチにやれという人、逆に小野寺さんみたいに、笑って暮らすのが大事だという人、あるいは自分のいうことを全部聞けといってくる人、まぁあなたがそういうならそれでいい、という人もいる。それぞれに個性があるので、どんなお医者さんとの関係が自分にとって心地いいかを見極めておくといいでしょう。とても具合が悪くなってから見つけるのは大変です。だからドクターショッピング的に“つまみ食い” をするのではなく、かかりつけ医を見つけておくこと。そして一方的にお医者さんに身を委ねるのではなく、「私はこうしたい」といえる関係性を築いておくことは、ウェルビーイングを保つのにとても重要だと思います。

野路:かかりつけ医を持つことは、医学界も大いに進めているところですね。

小野寺:そうなんですが、患者さんは普通、医者にかかりたくないですよね。健診を取っ掛かりに医療機関を受診して、相性のよさそうなドクターを見つけて、大したことのない病気であっても、相談していくことができるようになる。それがかかりつけ医なんだろうと思います。

磯野:会うだけで元気になるお医者さん、いますよね。具合が悪かったのに、話しただけで、なんとなくよくなった気がするお医者さん。意外とこういう感覚は重要な気がします。命というのは人間関係の中にあるので。

野路:付き合いの長いかかりつけ医は、患者がどんな仕事をしているか、お母さんお父さんがどんな病気をしたかということまで把握して診てくれますよね。自分の「健康」「ウェルビーイング」をトータルで考えてくださるお医者さんを、患者の側から育てていくといった考え方もいいかもしれませんね。

磯野:お医者さんにお任せできる部分もあると思いますが、お医者さんが決められない部分はあるので、患者側としても、どんな時にどう質問するかといったことも知識として、時間をかけて蓄えておくといいと思います。お医者さんとの関係も結局は「出会い」だと思います。

野路:ぜひ皆さんも、いいお医者さんに出会って、ウェルビーイングを実践していただければと思います。

<2人の略歴>
小野寺知哉(おのでら・ともや)
京都大医学部循環器内科臨床教授。循環器専門医。総合内科専門医。京都大医学部卒。同大医学研究科修了。米国シンシナチ大客員研究員などを経て1990年から静岡市立静岡病院勤務。2019年から病院長。23年から理事長兼務。25年4月から理事長専任
磯野真穂(いその・まほ)
東京科学大(旧 東京医科歯科大・東京工業大)リベラルアーツ研究教育院教授。早稲田大卒。オレゴン州立大大学院などで学び博士号(文学)取得。応用人類学研究所・ANTHRO所長。著書に『コロナ禍と出会い直す』『他者と生きる』など

(2025年3月22日にYouTubeチャンネル「SBSnews6」で配信した『人類学の視点で健康と病気の概念が覆る!医療人類学者磯野真穂氏と病院長対談 医療・医師とどう付き合う』を基に追加取材して一部加筆、再編集しました)