「社会化された病気」だった 新型コロナの特殊性

野路:では、新型コロナはまさに「社会化された病気」といえるのですか?
磯野:そうです。不調ではないのに、検査で陽性になったから「あなたは新型コロナ(の感染者)です。入院してください。行動制限もあります。濃厚接触者は誰ですか?行動履歴を聞きたいです」となっていく。まさに、「病気」が「社会化」されることを、皆さんが体験しました。
例えば著名人が、検査で陽性になっただけで、SNSで「すみません」と謝ったり、無症状なのに、「無症状ですが治療に専念します」といったり。もし「無症状ですが風邪になったので治療に専念します」という人がいれば、違和感を覚えるでしょう。でも、新型コロナは違った。こういう言い方にみんなが納得した。これがまさに「病気」とは「社会化」の結果生まれるという、人類学の考え方です。
小野寺:私も新型コロナは、「社会的な病気」であったと思います。感染症はどうしてもそうなります。本人の体調は何ともないのに、検査で陽性になった段階で差別を受けたり、隔離されたりということも起きた。重症化する人もかなりいましたが、症状が「ただの風邪以下」だった人も大勢いましたから。大多数にとっては、実は「社会的な病気」だったんですよね。
「病気の社会化」については、医学が進歩して、医学が「社会」の方にくみして、「これは病気だよ」と言い始めたという側面は、当然あります。血圧は年を取ると上がるのが普通です。60歳以上ともなると、半分の人が「高血圧」に分類される。 では、その人たちは病気ですか?といわれると、うーん、まぁ血圧は高いよね、でも別に本人はピンピンしているし、という話になるので、病気と定義するのはかなり難しいですね。
ただ、その人たちに薬をのんでもらって、血圧を下げると、もっと大きな(深刻な)病気にはなりにくいことは分かってきています。なので、「病気」のどこまでが社会的かというのも、かなり難しいです。血圧を下げると、脳卒中などのリスクも下がることはすでに明らか。一方で、リスクという概念を持ち出すと、大勢を「病気」に分類できてしまうという側面があるのも事実です。
磯野:医療と美容の境界もあいまいになってきています。例えば「医療ダイエット」「医療脱毛」という言葉が現れました。本来医学は、“よくなくなってしまったもの”を“元に戻してあげるもの”だったと思います。しかし医療は「病気からの回復」つまり「ー(マイナス)10を0にする」のではなく、「今ある状態をさらに良くする」つまり「0を10にする」ために使われるようになっています。そうすると際限がありません。
小野寺:(美容目的の医療であっても)投薬は医師にしかできないので、「医療」と名が付いている。ダイエットについては、病的な肥満は別として、「あなたが綺麗になるために注射をしましょう」というのは、本来の医療ではないと思います。ただ、医師の資格がない人が投薬を指示すると法律違反ですし、患者本人が「なんとかしたい」と望み、自費診療であってもそれに応えることは「治療」であるともいえますね。
野路:人類学的視点で見ると、医学の進歩によって、「病気」がある意味「生み出されてきた」という側面があることが分かりました。お二人に「死ぬまでにどう生きたいか」も聞いてみたいです。
小野寺: どうやって生きていくのか、そしてどうやって死ぬのかというのは、みんな、なるべく目をつぶっていたいだろうと思います。わざわざ考えるのか?ということですね。それこそ、国が「人生会議」と呼んでいる取り組みがあります。もしもの時に、どんな医療やケアを受けることを望むのか、家族や医療福祉従事者とあらかじめ話し合って共有しておくACP(アドバンス・ケア・プランニング)です。死ぬ時にどうしたいかを考えることは、死ぬ前にどのように生きるかを考えることでもあります。
野路:人生会議が大事だよとお医者さんにいわれて、父と話をしました。父は「意識がなくなって、口からご飯を食べられなくなったら、胃ろうはしなくていいからね」と。母からは口をつぐまれました。「あなたは私の息子なのに 私が死ぬ時の話をするの?」という感じだったと思います。人によって受け止め方が違うと感じました。
磯野:先ほどの美容の話は、ウェルビーイングの話と深く関係していると思うんです。ウェルビーイングとは、「良い状態」です。根っこには「今の状態は良くないから、良くしたい」という願望がある。良い状態にしたい。これ(ダイエットや脱毛など)をやったらもっとよくなる、もっともっとよくなると、その欲求が永遠に続くんです。飽くなき良さの追求ですよね。
その意味で私はやはり、先ほどご紹介した『養生訓』にある、命は親から、天からもらったものだから、それを社会にどうやって返していくか。そこを考えることが、私の中のウェルビーイングでありたいと思っています。人生会議については、私は両親から火葬の仕方までいわれています。骨も残さないで全部灰にしてほしいというのが両親の希望だそうです。
野路:ちょっとした笑い話で、「健康第一。健康のためなら死んでもいい」みたいなことをいう人がいて、皆さんは「馬鹿げてる」と思えると思いますが、コロナ禍を振り返ってみると、「感染対策第一。医療を崩壊させないためには、他の病気で死んでもいい」みたいな状況が、真面目な形であったなと思います。「健康第一」だけではなくて、 幸せな人生を送るためには、あるいは「養生」という考えを入れていくと、また違ったものが見えてくると感じました。
小野寺:いわゆる人生の「楽しみ」はいろいろあると思います。お酒を飲んで楽しい人もいるだろうし、ランニングが楽しい、記録を出すのが楽しい、ゴルフが上手になったから楽しいなど、それぞれの楽しさがあると思います。そういった「自己実現」に向かう楽しさが、生きていくうえでの総合的な目標だろうと思います。その目標が「コロナにかからないこと」であるというのは、いかにもおかしかったと思います。