太平洋戦争中、大分市に存在した大分海軍航空隊。軍事機密の観点から「秘密の部隊」とも称され、長らく謎のベールに包まれてきました。しかし近年、部隊の詳細を記した貴重な資料がみつかり、戦闘機のパイロットを目指して過酷な訓練に耐え抜いた隊員たちの実態が明らかになりました。
【画像をみる】部隊の詳細を挿絵入りで作成、大分海軍航空隊に所属していた男性の回顧録
日常的に制裁…
昭和13年(1938年)に設置された大分海軍航空隊。ここで訓練を受けていた福岡県飯塚市出身の惣門秀男(そうもん・ひでお)さんが戦後、当時の体験をつづった挿絵入りの回顧録を遺しています。
現在、飯塚市歴史資料館に保管されている回顧録によりますと、惣門さんが大分にいたのは、開戦から約2年後の昭和18年11月から約4か月間、19歳の頃でした。手記には、これから始まる過酷な訓練への強い緊張感が記されています。
惣門さんの手記『ああ遂に地獄の門をくぐる』

練習生の間では、大分海軍航空隊に入ることは『地獄の門』をくぐるようなものだと語られていました。『鬼の大分』ともいわれ、上官が野球用のバットなどで部下の尻を叩く制裁が日常的に行われていたと記されています。
この制裁は『バッター』とも呼ばれ、旧日本海軍全体で「精神注入棒」などと書かれた道具が使用されていました。惣門さんもその洗礼を受けます。
飯塚市歴史資料館 樋口嘉彦学芸員:
「惣門さんは『こんなものがあるっていうのは全然知らなかった。こんなもんがあるんだったら海軍に入るんじゃなかった』と後悔しています。恐らくこのバッター制裁は、大分航空隊が一番激しかったんじゃないかと思います」

惣門さんは、バットで叩かれた痛みについて『骨身に確実にこたえる』と記し、失神する者も出るほどだったといいます。
短期間で難しい操縦技術を身に付ける必要があるため、厳しい指導にも耐えていましたが、教育目的とはかけ離れた私的感情で暴力をふるう上官もいて、本音もつづられています。
惣門さんの手記『バッター好きの二人が前線の転勤になった。ああよかった。これでホッとしたよ。途端に愉快になっちゃった』