戦後80年、戦争の記憶と教訓を伝える「つなぐ、つながるプロジェクト」です。旧日本軍のパイロットだったある男性は顔にひどいやけどを負い、寝るときに完全にはまぶたが閉じません。やけどの裏側には、当時の無謀な作戦が隠れていました。
沖縄に一人の男性を訪ねました。吉冨弘一さん(73)。戦時中、旧海軍のパイロットだった父・肇さんの写真を見せてくれました。
吉冨弘一さん
「左の人は誰か分からないが、右が父親」
肇さんはこの後、顔に大やけどをします。皮膚が引きつり、両目を完全に閉じることができず、両目にタオルをかけて寝ていました。
吉冨弘一さん
「太腿の裏の皮をはぎ取って、顔に移植した」
なぜ、そんなやけどを。肇さんは多くを語らず、1992年に死去。その後、弘一さんは父のことを調べました。そして、当時の作戦に疑問を持つようになりました。
肇さんが操縦していた零式水上偵察機=零式水偵です。車輪の代わりに浮き=フロートがあり、「下駄履き」と呼ばれ、水上で離発着します。元々の任務は偵察です。
アメリカ軍が撮影した衝撃的な映像を専門家が見せてくれました。逃げる零式水偵に、アメリカの戦闘機が機銃掃射を浴びせます。そして、ついに被弾。翼から煙が立ち上ります。重いフロートのせいで、スピードが遅いのです。
豊の国宇佐市塾 織田祐輔さん
「戦争末期は圧倒的に米軍機の方が性能が優秀、捕捉されたら逃げることはほぼ不可能」
肇さんが操縦する零式水偵が長崎の佐世保の基地を飛び立ったのは1945年4月7日。あの戦艦大和などが沖縄に特攻に向かったすえ撃沈され、3000人以上が犠牲になった日です。
当時の文書によると、吉冨さんらは大和を掩護するため、奇襲攻撃を命令されていました。戦争末期は飛行機が足りず、偵察機も攻撃を命じられることがあったと言います。
そして、肇さんらは鹿児島湾上空で、アメリカの戦闘機の銃撃を受けました。
吉冨弘一さん
「一発目がエンジンに当たって、エンジンオイルが燃え出して、やけどした」
父の背中を追うように弘一さんは海上自衛官になり、36年つとめました。その経験からこう憤ります。
吉冨弘一さん
「“下駄履き”を護衛に使うか?どういう作戦なのか、上層部の使い方が分からない」
顔のやけどの裏側に、無謀な作戦がありました。
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