遺族「支援する側がもっとオープンにしないと…」

事件から3か月後、亡くなった西澤弘太郎院長の妹・伸子さんに話を聞くことができた。

亡くなった院長の妹 伸子さん(47)
「元患者さんだった人のコメントを見て、皆さん兄が亡くなられたことを悲しんでる方、不安に思われてる方がたくさんいらっしゃったので、どうしたらいいかなって。自分で何かできないかなっていうのをずっと思っていました」

オンラインで集まっていたのは、兄の元患者たち。クリニックを失った悲しみや不安を和らげようと、コロナ禍のオンライン上では新たな居場所が作られていた。

伸子さんはこの集いを知り、自ら参加していた。元患者らから聞く話は、兄の見知らぬ姿ばかり。伸子さんは事件から1年が過ぎた頃、ある決断をする。

それは、顔を出して取材に応じ、活動していくということ。

亡くなった院長の妹 伸子さん
「元患者さんがお話されていたときに、『支援する側がもっとオープンにしないと、誰も話さない、心を開かないですよ』という言葉がすごく響きました」

伸子さんは、夫と食べ盛りの息子2人の4人暮らし。主婦業の合間に、保護者会の活動や地元のレンタルスペースでランチの提供をするなど、忙しい日々を送っている。

医師と歯科医の両親の間に生まれた、伸子さんと兄の弘太郎さん。4歳離れた兄弟で、よく2人で遊んだ。

時々、プロレスの技をかけられることもあったが、いつも優しいお兄ちゃんだった。

伸子さんが、弘太郎さんの遺品で驚いたものがある。埼玉に下宿していた兄に、高校生だった伸子さんが書いた手紙だ。

手紙
お兄ちゃんが埼玉に向かってから、1時間たったというわけ。
さすがにお兄ちゃんがいなくなったので、さみしいもんです。
お兄ちゃんと一緒に朝まで勉強したことは、私にとって良い経験になったよ。

伸子さん
「すごく懐かしかったのと、ちゃんと置いてくれてたんだなって。捨ててもおかしくないのに置いてくれてたことが嬉しかったですね」

その後、兄は父と同じ内科の医師に、伸子さんは母と同じ歯科医になった。

伸子さんが結婚・出産を機に仕事を辞めた頃、弘太郎さんは大阪・松原市の実家で診療内科を開業した。心の病が原因で、体調不良を訴える患者が多かったからだ。その後、北新地にもクリニックを開業し、2つの施設で合わせて800人以上の患者と向き合っていたという。

伸子さんが弘太郎さんの姿を最後に見たのは、実家のある松原市の診療所だった。

伸子さん
「事件の1週間ぐらい前にすれ違ったのが最後でした。たまたますれ違って。車のエンジンかかってたと思うんで、また行くところなんやろなと思って声もかけずで」