光州事件の発端

その頃、朝鮮半島の南西部の大都市・光州市には、戒厳令に抗議する学生や市民が全国から続々と集結しつつありました。もともと光州には芸術家や文化人が集まる風土があったといいます。彼らは全南大学などに集まり、民主化を求めるデモを開始しました。

合い言葉は「光州で会おう」。全国から民主化を求める学生・市民が集まりました。(字幕は当時のもの)

1980年5月18日、デモに参加した人々に対し、軍が介入。鎮圧にあたった部隊が暴力的な手段を用いたことで、市民の怒りがさらに増幅し、抗議運動が激化することになりました。

学生・市民を待ち受けていたものは…(光州事件勃発・字幕は当時のもの)

軍との衝突と、市民の武装蜂起

投入された政府軍は、催涙弾や銃器を用いてデモ参加者を制圧し、多くの市民が犠牲となりました。非武装の市民に対しても過剰な暴力が行使されたとの証言もあります。

抵抗しようにも、手にした武器に圧倒的な差がありました。

鎮圧が激化する中、一部の市民は武器を手に取り、軍と対峙しました。これにより、市街地は一時的に市民の手に渡ります。

しかし、市民と軍ではやはり抵抗にも限界がありました。5月27日、政府軍が大規模な軍事力を動員し、光州市を完全に制圧しました。この過程で、さらに多くの人命が失われることになり、光州事件は悲劇のうちに幕を閉じたのです。

光州市内の体育館にはたくさんの棺が並びました。