「何しろ時間がかかった」一つの間違いも許されなかった報告書

ーー国広さんは、どんな思いで「調査報告書」に取り組んでいらっしゃったのでしょうか。また山一証券社内では、どういう受け止められ方をされていたのでしょうか。
国広弁護士:
経営破たんした企業について経緯を調べて、「調査報告書」を公表した例は、過去にありませんでした。そのため、前例に縛られることなく、書くべきだと思ったことを制約なしに書けたのが、よかったんじゃないでしょうか。
誰もこんな詳細な報告書を出すとは想像していなかったと思います。当時は、『第三者委員会』という言葉さえない時代です。私としても誰にも忖度する必要のない「1回限りの勝負」と思っていましたので、怖いもの知らずでした。
まわりは「大蔵省のことを書いたら大変な目に遭う」みたいに心配していましたが、気にしませんでした。
こんなことがありました。12月末から調査を始めたので、1月頃に山一証券の顧問弁護士のところに報告に行ったんです。
「社内調査委員会」のスタンスを一生懸命に説明したのですが、鼻であしらわれました。顧問弁護士の先生からは、「こちらは自主廃業の手続きで忙しい。こんな大変なときに、社内調査委員会などに何ができる?どうせ隠ぺいするような報告になるのでしょう」みたいな感じで言われました。
立派な顧問弁護士「先生」からすると、どこの馬の骨かわからない駆け出しの弁護士が報告に来たわけですから、バカにされても当然だったかも知れません。
だからあとで「調査報告書」をお読みになってびっくりされたと思います。こんな詳細な「調査報告書」が出るとは予想されてないでしょうから。私にとっては、かえって「完璧に無視された」のが、口出しされずに済んで、良かったんだと思います。

ーー調査報告書の公表時期は、やはりこだわりがあったのでしょうか。また実名で記載された経営陣や大蔵省からの反論も予想されたと思いますが。
国広弁護士:
本当は、従業員が全員解雇される日の「1998年3月31日」までにやりたかったんです。この日は「山一証券が消滅する日」で、最後まで残っていた山一の約40の支店が閉鎖され、看板が外されました。もちろんその前に、どんどん辞めていきましたが、全社員7500人のうち、まだ半分以上の方が在籍していました。その人たちの「最後の日」が3月31日だったんです。
とにかく3月31日までに完成させて、公表して記者会見をやるというのが当初の予定でしたが、やはり間に合わず、去っていく社員に合わせる顔がないと思いました。
最終的に2週間遅れての公表となりましたが、内容を読めば社員もわかってくれるだろうと、自分たちを納得させました。
何しろ時間がかかったんです。社員の委員たちがヒアリングして事実など材料を集め、それを受けて、私が客観証拠や他の証言との整合性などから「信用できる証言かどうか」を評価して、報告書に落とし込んでいく作業です。そして4月に入った頃からは、連日、私が書いた報告書案の「読み合わせ」を繰り返しました。
実名で記載された山一経営陣や、大蔵省からの反論も予想されましたから、一つの間違いも許されませんでした。全員で全文の読み合わせをしながら一字一句、確認と訂正をしていきました。大体お昼くらいから始めて、終わるのが、12時間後です。それを6回繰り返しました。ここはこう書き足そうとか、ここはちょっと弱いから確認のために再ヒアリングをやろうとか、あくまで揺るぎない事実(ファクト)に基づく報告書にしようと、全員で練り上げていきました。
そして、公表2日前の4月14日、取締役会で承認を得るために、「調査報告書」を2時間半かけて全文朗読しました。内容にはほとんど文句はつけられませんでしたが、予想どおり、強く抵抗されました。
「社内調査委員会だから社長と取締役に報告すれば足りる。公表すべきでない」
「前例がない」
「公表すると訴訟を誘発する」
最終的には公表前日の4月15日に議決されましたが、あきれたことに、この段階でもまだ「公表」に異論を挟む役員がいたことも事実です。
