「名ばかり第三者委員会」を評価する委員会立ち上げ

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2015年に発覚した「東芝」の不正会計問題。歴代3社長の引責辞任にまで発展したが、「第三者委員会」が、会社側の意向を受けて、監査法人の問題や原発子会社の会計処理を調査対象から外すなど、問題を隠蔽していると批判を受けた。

また「東京電力」の「福島第1原子力発電所事故」の対応については、「第三者委員会」の調査が不十分だと批判された。また東電が「メルトダウン(炉心融解)」を認めなかった背景には、「首相官邸からの指示」があったとする調査結果についても、会社側に有利な事実認定ではないかと指摘された。
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ーー日弁連の「第三者委員会ガイドライン」が策定されたあとも、経営者の責任回避のための、「名ばかり第三者委員会」が散見されています。調査結果に対する客観的な評価というのは可能なのでしょうか。

国広弁護士:
「ガイドライン」でもう一つ伝えたいのは、「第三者委員会」が公表する「調査報告書」は「公益的なもの」「公共財である」ということです。そもそも委員会の設置が必要な不祥事は、上場企業グループが起こす場合が多く、企業自体が「パブリックな存在」なのです。
これらの企業の不祥事は、市場で病理現象が起きているのと同じです。第三者委員会の第一義的目的は、企業自体の信頼回復ですが、その結果、社会や投資家からの市場に対する信頼感も回復されなければなりません。

ただ、第三者委員会によっては「日弁連のガイドラインに準拠しました」といいつつ、実質は第三者性のない「お手盛り」の第三者委員会も出てきます。役員に気を使い、原因究明も事実調査も甘い内容です。

そこで、2014年に「第三者委員会」の調査報告書の内容を評価するという「第三者委員会報告書格付け委員会」を立ち上げました。
これは弁護士やジャーナリスト、大学教授らで企業の第三者委員会の報告書を精査して、A、B、C、Dの4段階にランク付けするものです。評価に値しない報告書には「F」とします。

たとえば、私は上記の「東芝」の問題で「F評価」を付けました。いわゆる評価点の外側、論外です。その一因は依頼者側の「東芝」が「調査範囲を限定」していたことです。
株主、投資家たちが最も知りたかったウエスチングハウスの件、つまり「原子力部門の問題」が調査から欠落していたのです。これは第三者委員会の本質に反する行為だと思います。

さらに原因について「利益至上主義」「トップ主導の不正である」と書かれているのに、それがいつから、何をきっかけに、また何が動機なのか、全く調査がなされていませんでした。また「社外取締役」の機能不全などコーポレートガバナンスの問題にノータッチだったことや、第三者委員の選任プロセスの問題など、残念な内容でした。

もし、山一の「社内調査委員会」も、経営陣の息のかかったお抱えの調査委員会だったとしたら、「われわれは、大蔵省との関係の調査は依頼されていません」と忖度して大蔵省のことは書かなかったかもしれません。

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山一証券「社内調査報告書」を書いた国広正弁護士(2024年9月25日)

山一証券の「社内調査報告書」は、不祥事を起こした企業の「第三者委員会」のモデルとなり、日弁連の「第三者委員会ガイドライン」につながっていった。

「報告書」はあれから27年経った今、読み返しても、決して色あせていない存在感を放っている。それは平成から令和になっても、企業の中で同じようなことが起きているからだろうか。

これまで暴力団排除、山一証券、長銀など多くの修羅場をくぐってきた国広の信条は一貫して「火中の栗を拾う」ことである。しかし、それは自分だけではできないと言う。

「みんなで知恵を出し合うのが私の仕事のスタイル、私が誰かに何かを教えるのではなく、私もいろんな人から教わることがあり、共同作業だと思っています。なので、先生と呼ばれるのが嫌なんです」

そして最後にこう念押しされた。

「この山一調査報告書の原動力は嘉本さんたち、山一の社員であり、私はあくまで(当事者ではないのに)委員長の嘉本さんの侠気にシンクロした『助っ人』に過ぎません。あるいは、山一社員の無念の思いが乗り移った『恐山のイタコ』みたいなものかもしれません」 
  
それは、危機管理の第一人者となった今でも、決して変わらない、原点を忘れない“マチベン”の言葉であった。

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光

■参考文献
山一證券「社内調査報告書」社内調査委員会、1998年
国広正「修羅場の経営責任」文春新書、2011
本林徹 編「新時代を切り拓く弁護士」、2016
清武英利「しんがり 山一證券最後の12人」講談社、2015年
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年