壮絶なリハビリ・・・奮い立たせたのは“五輪への思い”
2002年には日本代表監督に就任。しかし、アテネ五輪を目指していた2004年の3月、脳梗塞で緊急入院したのです。長嶋:
意識がなかったのは病院に入って、1週間から10日ぐらいだったと思う。(倒れたときはわからない?)わからないね。(意識が戻ったときの状況も)わからないね。
意識を取り戻した時は、どのような状況かわからず、そこから壮絶なリハビリの日々が始まりました。
脳梗塞の後遺症で今も右半身に麻痺が残りますが、この困難に真正面から向き合ってきました。脳梗塞の後遺症と戦う患者の多くは、自力歩行ができるまで回復すると、リハビリを終了するのが一般的です。しかし、長嶋さんは違いました。

「逃げたいな」とか「止めてしまいたいな」とかリハビリで思うことはなかったですか?
長嶋:
ないないない。一生懸命ね、自分と勝負しようとやったからね。
高橋:
あそこまで頑張るのは・・・自分を奮い立たせる思いとはなんでしょうか?
長嶋:
一度でいいからオリンピックに出てみたいという気持ちがね、本当に強い気持ちがありました。
その思いを実らせたのが、今年7月の東京五輪開会式。3年前に胆石で入院するなど、ここ数年、体調がすぐれぬ日々が続きましたが、五輪の舞台に立つために努力を重ね、聖火ランナーを務めました。どんな困難にも負けない、長嶋さんの“反骨心”が実を結んだ瞬間でした。
高橋:
王貞治さんと松井秀喜さんと3人であの場所に立つというのは、長嶋さんにとっていかがでした?
長嶋:
聖火の灯を持って、何歩も歩いてね。「よかったな」という気持ちはありますよ。松井はニューヨークから来てね。「頑張りましょう」と。また側にいる王さんが「何とかしていい歩きをしなさい」と。オリンピックっていうのは、世界のオリンピックって言いますけど、国内のオリンピックは本当によかった。何とも言えない気持ちでした。
高橋:
(東京五輪では)多くの人にどんなことをお伝えしたいな、どんな姿をお見せしたなと思われました?
長嶋:
やっぱり元気な姿をね。
(【後編】大谷翔平について、長嶋さんの夢とは・・・に続く― )
■10.8決戦
1994年10月8日にナゴヤ球場で行われた中日ー巨人戦。129試合を終えた時点で巨人69勝60敗、中日69勝60敗と日本プロ野球史上唯一、ペナントレース最終戦時の勝率が同率首位で並んだチーム同士の直接対決となった優勝決定戦。テレビ視聴率は48.8%でプロ野球中継史上最高となった。試合は巨人が6-3で中日を下し4年ぶり27度目のリーグ優勝。日本シリーズでは、西武を4勝2敗で破り、長嶋さんは、監督としては初となる日本一を達成した。1993年から12年ぶりに巨人監督に復帰してた長嶋さんは、同年はリーグ3位に終わっていた。
■プロ野球初の天覧試合
1959年(昭和34年)6月25日、昭和天皇・皇后両陛下が後楽園球場で行われた巨人ー阪神戦を観戦された。試合は白熱した展開が続き、4-4の同点で迎えた9回裏、巨人・長嶋茂雄が阪神のエース・村山実から本塁打を放ち巨人がサヨナラ勝ち。プロ野球初の天覧試合は歴史に残る劇的な試合となった。
■長嶋さんと“反骨心”
プロデビュー戦で不滅の400勝、金田正一投手に4打席連続三振も、その年に本塁打王&打点王の2冠。巨人9連覇・Ⅴ9時代を牽引。1975年引退直後のシーズンに監督就任も球団初のリーグ最下位。しかし翌年リーグ優勝。監督で通算リーグ優勝5回、日本一2回。