戦国時代に天下統一を目指した織田信長(おだ のぶなが)が、細川藤孝(ほそかわ ふじたか)に送った書状が新たに見つかりました。

熊本大学永青文庫 稲葉継陽研究センター長「どうして今まで誰もこういうものがあると気付かずに永青文庫に残っていたのか」

9月6日に会見した永青文庫(えいせいぶんこ)と熊本大学によりますと、見つかったのは織田信長が肥後細川家初代・細川藤孝に書き送ったという書状で、2年前に永青文庫から見つかりました。

書状は、室町幕府が滅亡する1年前の1572年8月に書かれたとみられます。

信長は京都で足利義昭(あしかが よしあき)による幕府体制を樹立しましたが、その後、義昭やその側近などと関係が悪化。しかし、義昭の側近の一人で唯一、信長と通じていたのが細川藤孝でした。

信長は書状で藤孝に対し、京都南部から大阪方面の領主たちに信長の味方になるように動くように依頼。「あなただけが頼りです」とも懇願しています。(記事末尾に書状の現代語訳を記載)

結果的に義昭は信長に対し挙兵しますが、こうした根回しもあり、挙兵は不発に終わりました。

「歴史的意義大きい」

永青文庫の稲葉研究センター長によりますと、「信長が周囲にしっかりと根回しをするタイプであることが伝わる書状」だとしています。

また、これまでの通説では、義明が挙兵してから信長が動いたとされていましたが、室町幕府が滅亡する約1年前から織田信長が動いていたことが分かることから書状の発見は、歴史的な意義が大きいということです。

これまで見つかっている59通の信長の書状は、いずれも国の重要文化財に指定されていて、今回も重要文化財級の貴重さだということです。

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細川藤孝(1534~1610)
幕府家臣の三淵家に生まれる。13代将軍足利義輝の奉公衆として台頭し、義輝暗殺後はその弟、義昭の側近として義昭と織田信長を結び付け、幕府の再建に尽力。義昭の京都没落に際しては信長のもとに残り、信長の直臣大名として活躍。豊臣政権のもとでは秀吉の文化ブレーンとなる。近世大名肥後細川家の初代。
(熊本大学の資料より)

「織田信長像」画像出典:ColBase