塩澤さん:
「生きているのか、という話しかできなかった。『無事で帰ってきてくれ』願うのはただそれだけ」

そして終戦

連絡が取れないまま迎えた終戦。届いたのは兄2人の死を伝える知らせでした。



文吉さんは輸送船で硫黄島に向かう最中に攻撃に合い、守雄さんはパプアニューギニアで銃撃を受け亡くなりました。26歳、24歳という若さでした。



塩澤さん:
「うちのお袋は気丈な人だったが、泣いて転がった。こんなバカな話があるか、気丈なおふくろが転がって泣いた。『おかあちゃん、まだ僕がいるからいいじゃんけ』そう言っても42歳の時に生まれた子どもでしょ。頼りにできない気持ちがあった。その時に『よし 兄2人分の親孝行をしよう』と私の青春は親孝行で終わった」

塩澤さんは兄たちの遺骨を受け取りに甲府へ向かい、木箱を抱えて思い出のボロ電で帰宅しました。

塩澤さん:
「中を開けてみたら名札と落雁菓子が入っていただけ。こんなもんでした」

骨どころか遺品さえ戻ってきませんでした。



塩澤さん:
「何で兄貴こんな姿で帰ってきてしまった。平和の大切さがしみじみわかった」

塩澤さんは兄たちの遺志を継ぎ、教師の夢を諦め、農家の跡取りとして、ひたすら働き家族を支えました。

塩澤さん:
「(兄たちが)生きていたら、『進よく頑張ったな』って言ってくれるかな」

そして70年以上の時を経て塩澤さんは戦争の語り部としてかつて目指していた教壇に立ち、平和の尊さを伝えています。



塩澤さん:
「こんな愚かなことをしてはならない。何も残らない」

悲痛な思いと兄の言葉は終戦から78年経った今も色褪せません。
=戦地から兄が書いた手紙= 
「お身体を大切に さようなら」