福島県・大熊町を取材すると、原発災害からの復興の難しさが見えてきました。
13年ぶりの小学校に当時の在校生たちは…
今も廃炉作業が続く福島第一原子力発電所。そこから3.5キロ、除染土を集めた区域に、その小学校はあります。

旧・大熊町立熊町小学校。
児童、およそ330人の学び舎でしたが、その面影はありません。今も許可なく立ち入ることができない中、2月、当時の児童らに開放されました。老朽化が進み、今後入れなくなる恐れがあるためです。
当時の児童
「髪型変わってない、しゃべり方そのままだ。なつかしい~」
「変わっていないね話し方が」
13年ぶりの再会。みんなすっかり大人に…。ただ、教室は“あの日”のまま…。
当時の児童「当時のまんまです。ランドセルも」

今も放射線量が高いため、数時間という制約の中、当時の記憶を辿ります。
志賀俊希さん
「全然覚えてないよね。だから最初に席をめっちゃ探して」
「こんなちっちゃいところに座ってたんだ」

当時小学4年生だった志賀俊希さん。下校準備を進めていたさなか、地震が発生。先生の指示の下、すぐさま教室から避難しました。
志賀さん
「(靴を)履いてこれなくて下駄みたいなやつで行った(逃げた)」

そして、地震発生から50分後…。
原発が津波で被災。避難指示が出され、翌日、町を後にしたのです。
志賀さん
「『避難しろ』という放送が流れて、町民のみんなと一緒に、なぜ避難するかわかんないまま…。正直、すごく悔しいというか、悲しい思いでいっぱい。あの事故がなかったら、自分の人生をまた大きく変わってきたのかなと」
志賀さんはその後、福島県内で避難生活を送っていましたが、「地元の復興に貢献したい」という思いから、大学卒業後、町役場に就職。町民たちが戻れるよう町づくりに尽力しています。














