「宝ものだった息子」病気が発症しても必死に病と闘い続け【意見陳述全文】

裁判後に記者会見で取材に応じる母親

21日に開かれた第1回口頭弁論の中で、児童の母親はハンカチで涙をぬぐいながら息子の闘病生活や裁判の思いなどについて意見陳述しました。

児童の母親 ※全文・一部修正
宝物だった息子が亡くなってから、4年が過ぎました。 息子がいないという現実は、いまだ受け入れることができません。 息子に会いたい。この想いは、日に日に強くなるばかりです。

生まれてすぐ、白血球の数値が高いことが分かり、大学病院に搬送されました。2か月後、ようやく家族で暮らしを始めた時は、本当にうれしかったです。
ですが、退院したのも束の間、心臓の病気も見つかり、手術を受けました。
6キロくらいしかない小さな身体で、頑張って手術に耐えてくれました。この時、医師から、『ウイルス感染などは重症化する可能性がある』と言われました。
だから、その後は、感染症には特に注意をして生活するようになりました。
ダウン症であることも分かりました。初めは不安もありましたが、息子は、のびのびと育ってくれました。

滑り台が大好きで、公園に行けば、何度も何度も滑っていました。滑り台の終わりは、ジャンプして立ち上がるのがお決まりでした。 花火も大好きでした。初めて花火をした時、最初は驚いていましたが、綺麗な光でパッと周囲が明るくなるのが嬉しかったのか、花火が無くなるまで何本も欲しがりました。

アイスクリームが大好物でした。特に好きだったのは、バニラのソフトクリーム。カップではなく、手に持って食べるコーンのタイプがお気に入りでした。 アイスが溶けて落ちると心配しましたが、落ちそうになるとコーンの横から上手にペロっと食べていました。1日に1個という約束をさせていましたが、足りないときは、家族の誰かと一緒に食べれば許されると思っていたようです。冷凍庫から2個のアイスを取り出して、一緒に食べようと誘ってくる仕草は、可愛くてたまりませんでした。

5歳になる直前でした。白血病を発症し、入院して抗がん剤の治療を受けることになりました。その直後、脳梗塞も発症して、右半身に麻痺が残りました。 あれほど元気に走り回っていた息子が、自分で歩くことも出来なくなりました。
なぜ息子ばかりこのような目に遭わなければならないのでしょう。
それでも、息子は、大人でも逃げ出したくなるような厳しく辛い入院治療を頑張ってくれました。

抗がん剤治療の副作用や、骨髄に直接注射をする激しい痛みを伴う治療。親が子の治療の場面を見るのは辛すぎるので、外に居てくださいと言われました。
処置室の外にまで響き渡ってくる息子の泣き叫ぶ声に、耳をふさぎたくなりました。食事や飲み物にも制限があり、大好きなアイスも食べられませんでした。 何かを食べてもすぐに吐いたり下痢をしたりしました。点滴に繋がれ、行動を制限されました。それでも、私が『頑張ろうね』と声をかけると、『ハイ』と返事をしてくれたり、手のひらでタッチをしてくれたりしました。

治療の甲斐あって寛解となり、9か月後に退院することが出来ました。息子は本当によく頑張ってくれたと思います。

退院後も保育園に通うことはできませんでしたが、卒園式だけは出席させてもらいました。園長先生から卒園証書を受け取った息子は、目を輝かせて喜んでいました。

小学校入学にあたり、息子は感染症に注意が必要と医師から言われていましたので、特別支援学校への進学を希望していました。ですが、特別支援学校でも感染症対策を丁寧に行うことは出来ないと言われ、最終的には、地元の小学校へ入学しました。