その頃、1938年の清里は東京の水源確保のための小河内ダム建設に伴い、丹波山村と小菅村の一部の人々が移り住み開拓が始まりました。
ラッシュも懸命に支援します。
秦館長:
「当時はですね、水を探すのがものすごく大変で、一生懸命掘ってようやく水が出てくる場所が見つかって」
「木も多いですし、あとは下草もいっぱい生えていますし、そこをならすっていうのは自分たちでもちゃんと関わっていたようです」

41歳で「清泉寮」を開設。
旧清里村と大泉村にまたがることからその名が付けられました。太平洋戦争で計画は一時中断しますが、戦後再び清里に戻り開拓を続けます。
秦館長:
「戦後になってポール・ラッシュが帰ってくると、ここをある意味で食糧難に立ち向かうパイロット的な実験をする村みたいなものを彼はつくっていくんですね」







