「結構広かったと思うんだなよな。敷地がな」
カメラはすでに回っていたが、私は何を聞けばいいのかわからなかった。そもそも何かを聞くことが自体を、体が拒否していた。カメラマンはじっと、その職分を果たしていたが、記者たる私はそれができずにいた。
上り慣れた坂道の先の風景が、変わり果てていたからである。
目の前に広がっているのは、黄土色の土に覆われた、空白であった。解体という現実的な作業を超えた、圧倒的な力による破壊の結果のように思えてならなかった。
「除染したんだな」
何も言えずにいる私に、今野は絞り出すようにつぶやいた。目線の先に、刈り取られた樹木があった。手入れを重ねたヒイラギである。今野の細長い目は、その枝先を捉えたまま、離れることはない。
2020年2月、私は解体が終わった今野家の跡地にいた。今野家の解体は前年のうちに完了していた。乾いた土と砂利が広がり、重機のキャタピラの跡が深く刻まれている。庭の木が徹底して刈られたことで皮肉にも見通しがよくなった。高台から見える水田も除染が終わり、同じ黄色い土に覆われている。セイタカアワダチソウも、太く伸びたヤナギも、もう残されていない。ここにいる私たちではない誰かに言わせれば「復興」は進んでいるのだろう。
解体後、この場所を今野が訪れたのは二度目である。手には小さなデジタルカメラを握りしめていたが、撮影する素振りはない。
「あの……最初にここに来たときは、どんな気持ちでしたか」
やっと出てきた問いが、これであった。
「結構広かったと思うんだよな。敷地がな」
微笑しながらやはり穏やかに今野は言う。その笑いの意味を、私はつかみ取ることができない。
「全然ハァ、ここに家があったのも……。来てがっかりしたっていうのが一つだな。こんな姿は見たことねえから」
3世紀の間、誰も目にすることがなかった空白である。
「ねえ、前の面影がどんなだったか、想像するしかなくなっちゃった」
今野は言う。私はこれから、ここに家があったことを想像できるだろうか。かろうじて、家があった範囲の土だけが黒く湿っていた。後ろに広がる山の際に石垣が残されているのみである。法廷で今野の最終弁論を聞き、失われた姿を想像できなかった私はいま、在りし日の姿を思い起こせずにいる。
ここが台所で、向こうが蔵、そこが玄関で、ここから先は新しく作ったところ……。そんな私を見透かしたように、今野はひとつひとつ説明した。
裏山には水が涌いている。だから、この場所に今野家の先祖は居を構えた。水の近くにはワサビを植え、よく食べた。家があった場所とは違い、土は歩くと沈むほど十分に水を含んでいた。長い間、生活用水として使ってきた。
「やっぱり、最初に見たときもがっかりしたというか、情けないというか。いままでのね、ここにいた生活の思い出というのはなくなっちゃったし。残っているのは石積みくらいだからね」
敷地には5メートルほどのモミジの木が残されていた。「花見山のような庭園」を目指し、庭を熟知している今野に、この木を植えた記憶はない。どこからか飛んできた種が、10年の間にここまで伸びたのだと今野は言う。失われてなお、時間は進み続けていた。
「三匹獅子舞もね、やろうと思えばできないことはないと思うけど、みんなバラバラだし。主力の子どもたちは1年生から3年生くらい。時間かかったら、知っている人がいなくなっちゃう。獅子ができるのは一人くらいだな。道具は集会所さ持って行ったけど」
2023年に避難指示は解除される見通しである。心の整理がつき始めた私は、改めてどうするつもりなのかを聞いた。
「ここ除染したって、戻ってくるのにまた家を作らなければならない。避難した人がみんな帰ってくるかと言えば、帰ってくるわけじゃないし。店や病院があるわけでもない……難しいな。時々遊びに来るならいいと思うけど」
家のあった高台から集落を見つめ、この日何度も聞いたため息をついて、今野は言う。
「何にもないんだ。田んぼだけがきれいになる」
上津島にまた、春が来ようとしていた。遠くから、除染する草刈り機の音がする。刈り取られた土の上に、黄色い花が咲いていた。指さして、やはり笑いながら今野は言う。
「唯一、ふいているのはフクジュソウだけだ」
幾重にも重なる喪失を経てなお、時間だけが進み続けている。
特定復興再生拠点では避難指示解除に向けて、除染と住宅の解体が進んでいる。
※2020年~21年にかけて取材。
(この取材から2年後の2022年7月、今野正悦は73年の生涯を閉じた。津島地区の準備宿泊が始まる約1か月前で、避難指示解除には間に合わなかった。最期は入院していた病院から避難先の自宅に戻り、17日間を家族とともに過ごしたという。親しかった知人の一人は「家を壊してから、急に元気がなくなった」と、涙ながらに話した)













