解体の日…「静謐」を破る者たち

「解体が始まった」と今野から連絡があったのは、2か月後の7月末であった。再び帰還困難区域に入る許可を取って、今野とともに家に向かった。
 入り口には、「解体作業中」と書かれた青いのぼりが立てられ、赤い三角コーンとともに、「立入禁止」の看板も立てられている。その下には「20089」という、整理番号が付されている。
 かつてあった暮らしの場は、一つの工事現場になっていた。
 私たちが待たされていたのは、それが工事現場だったからだ。事前に取材に必要な入域許可を取り、発注者である環境省にも念のため連絡を入れておいた。「地権者が許可しているなら大丈夫です」という返答であった。
 ところが現場に行くと、作業員はまったく聞いていないと話す。大手ゼネコンの管理者らしき人物が出てきた。「地権者ならいいが、現場に第三者を入れるわけにはいかない」という。理由は安全管理のため。事故があっては困る、と。しかし、発注者の環境省が許可しているのだから、こちらもそのまま了解するわけにもいかない。
 今野はずっと苦笑している。やはり雨はやまない。
 その場で作業員が環境省に連絡を入れた。すると今度は「うちではそんな話は聞いていない」という返答ではしごを外した。
 押し問答が続き、私たちはこうして延々と雨の中を待たされている。道路に面したネムノキが赤い花を咲かせ、細い花びらから水を滴らせていた。
 もっと静謐にこの取材をしたかった、と思う。そのための準備もしたはずだった。
 私が受け容れがたかったのは、安全管理という名目以上に解体の現場を撮影することへの都合の悪さのようなものを、あからさまに感じたからである。「撮影してほしくない」という意図を隠さなかった。
 解体は持ち主の同意のもとに全額国費で行われる。それには期限があって、それまでに手を上げなければ、その後は自分で管理するか、私費で解体することになる。望まざる選択肢を提示された上に、飲まなければ大きな負担だけが残される。そういう構造のもとに、どれほど今野が苦悩したかはすでに本人が語った。
 「特定復興再生拠点では、除染や住宅の解体が進み……」と、私たちは日々のニュース原稿で書いている。解体で失われるのは家だけではないという、至極当たり前のことを今更知った身としては、せめてそれを最後まで見つめ、伝えるのが務めである。
 押し問答が続いた揚げ句、撮影に作業員が付き添うという形となった。
 不本意ではある。しかし、退域の時間も迫っている。受け容れるほかに、撮影を可能にする選択肢はなかった。

 ようやく通された坂道を、登る今野の足取りはいつもより重かった。
 雨は一層強くなっていたが、家の窓という窓は開け放たれ、畳も家具も外に出されている。赤の三角コーンと紅白のパイプがぐるりと家を囲み、入ることはもうできない。庭に並んだフレコンバッグには、分別が終わった家財道具が詰め込まれていた。それらも雨に打たれ、等しく泥をかぶっている。2か月前、確かに存在していた生活や歴史の名残が、一つひとつ失われていこうとしていた。
「どういう放送になるんですか」
 呆然とする私を我に返らせたのは、環境省の職員の問いである。それが職務だと言わんばかりに、傍らの「地権者」には目もくれず、放送予定や今後の取材などをあれこれと聞いてくる。最初は真面目に答えていたが、しばらくしてこれも一種の妨害なのかもしれないと気づいた。あまりに長いし、細かい。いい加減、腹が立った。
「これから始めるので」と遮って、取材を進める。
 今野は、雨が滴る大きなトタン屋根を見つめている。夏場のトタン屋根に降り注ぐ雨は、もやに変わってまた空に戻っていった。

「写真が少し残っていたから、きょう持ってきたけど。あとはみんな捨ててくださいって言ったんだ。持って行ってもどうしようもねえんだ。
 できることなら、本当はここに住みたかったね。でも、こんな状態で残しておいたって、どうしようもなくなるし。子どもたちも帰ってこないと思うし、帰ってきて俺らばっかり入ったって、年寄りだし、何年も住めないし……。だったら、壊すしかないなあって。この状態だからね。植木だって、なんだって。全部。これだって、きれいに刈っていたヒイラギ。きれいに刈っていた。十年近く何もしないからだめだな、うん。この木なんかこんなに大きくなってない。後から植えた木だから。1メートルくらいだったよ。ここは高台で、植木は全部刈ってたから、見通しもきれいに見えた。向こうまで。
 家はだんだん、だんだん、ダメになっていくから。私の家は古くて、風通しもいいから、湿ってはいない方だけど、ほかの家はみんな湿ってます。床も抜けてます。だから住めないの。で、私の家も、後ろの方は獣が入ってしまった。それでみんなやられている。これ以上はもう……ね。何年後に帰ってこれるかわからないでしょ。除染して拠点にするといても、うちは住める状態ではない。だから、やっぱり壊すしかない。このまま残していてもどうしようもないですね。どうしたらいいかわかんないよね。うちが朽ちていくのを見るのは嫌だから、壊すのを決断したんだけど……。
 ねえ、こんなふうになるとは誰も思ってなかったんじゃないですか。我々は裁判をしているけど、やっぱり主張するところはしなければならない。なぜかというと、他の原発でこういう事故が起きたときに、浪江の人は、福島の人はいいよって言ったという話になっちゃうと、それはおかしな話になっちゃうのね。
 みなさん情けなくていますよ、家の解体については。俺も本当は生まれ育って75年くらいいたんだから……。まったく。目の前の田んぼだって、どこに根っこがあるのか、石があるのか、わかっているんですよ。……情けないなと思う。土も庭も、手入れをしてきたし、先祖様が作ったやつだし、まったくね、こんななるとは思ってないから。残念だ。悔しい思いはあります。みなさん、そういう気持ちはあると思います。
 もう帰ってこれないんだから。みなさん愛着を持って自分の家を手入れしてきたんで。津島に開拓に入った人たちだって、3代目くらいになっているけれども、みなさん本気になって家つくったり、直したり、農業やったりしてきたんだよね。やっと軌道に乗ってきた人たちなの。だから、悔しいんじゃないですか。そういう人も。
 津島には1400人ぐらいいたけども、ほとんどの人を知っているんですよ。避難しているから輪もなくなった。十年すれば、昔の人の名前も忘れてしまう……悔しいな。ここだって昔は石垣がこういうふうにあったの。ここは私が直したんですよ。手入れしてきたんだからね。
 三匹獅子舞はここでやった。この庭で。本番の当日はここで集まって、ひと踊りしてから、神社に奉納したんだね。な、情けないよな。うん。全然庭じゃなくなった。山になっちゃった」

 口調は終始、穏やかであった。雨がやむことはなく、今野が「山」と言った庭は、いよいよぬかるんできた。
 十八代という歴史と、上津島の庭元という立場を断ち切るという、一人では決めきれないような選択を、今野はしなければならなかった。
 解体の書類にサインしたのは彼だったとしても、そうさせたのは国家である。今野は解体を望んでいない。そうせざるを得なかっただけなのである。

解体作業