50年前の反対運動「100%安全と言い切れるのか」
反対派住民(当時):
「なにが安全なんだと。安全であれば、原子力発電所は100%安全だとこの場で言い切れますか」
宗悦さんは、周辺3町の漁協でつくる団体のリーダーとして反対運動の最前線に立っていました。
阿部宗悦さん(当時):
「的確な答えと公開討論、代表討論の開催を再度要求する」

この日、美紀子さんはかつて父・宗悦さんらと反対運動を行っていた阿部七男(73)さんのもとを訪れました。当時は県警の機動隊と衝突が強く印象に残っているといいます。
「機動隊が殴るんだよね」分断された町
阿部七男さん:
「(機動隊の)手袋の中になんかイガイガしたもの入れられてんだよね。だからすごく痛い感じはあったな」

阿部美紀子さん:
「あと安全靴で蹴られた。機動隊が盾振り上げて殴るんだよね。あの当時。だからそれに対抗してはね返せば逮捕だっちゃ。だからそれをやめさせるためにカメラ向けるとやっぱりやめるんだよね。振り上げたの降ろす」

やがて町は賛成派と反対派に二分されていきました。
阿部美紀子さん:
「原発反対していたけども、息子が役場に就職したから原発には反対だけども、これから運動には出られないからなって言った人もいるもん」
七男さんは辛い思いをしても反対運動をやめようと思ったことはないといいます。
阿部七男さん:
「とにかく自分たちだけじゃなく、子どもたちとかそういうことを考えると反対する以外なかったんだ。将来のことを考えての戦いだったわけね、生活を守るための」
10年の延期を経て着工に動き出す
漁協は原発建設につながる漁業権の放棄を認めず、およそ10年にわたり着工は延期となりました。
しかし1978年、漁協と東北電力の間で漁業の補償協定が結ばれ、漁業権の一部消滅が決定。事実上、原発の建設が認められることになりました。
阿部七男さん:
「お金で丸められたようなのと同じ。悔しさはあったけどもやっぱり力不足だったね」

一方、原発の誘致に賛成の立場を貫いてきた人もいます。







