東日本大震災の津波で妻と母親を亡くしながら、故郷の復興のためにと農業法人を設立して、イチゴとネギの栽培に力を入れてきた気仙沼市の男性が、震災12年を前にある決断を余儀なくされました。男性が下した決断とは?

津波被災市は農地に変わった

慰霊碑に手を合わせる佐藤信行さん71歳。この12年近くの間、月命日の慰霊を欠かさず行ってきました。

佐藤信行さん:「時の流れは過ぎてみればあっという間。亡くなった方の冥福を祈りながら、行方不明の方が私の地区で17人いる。家族が待っているので早く帰ってきてくださいといつも手を合わせている」

生まれ育った気仙沼市杉ノ下地区は、住民の3分の1にあたる93人もの人が津波の犠牲になりました。災害危険区域となったため住むことはできなくなり、大規模な農地に生まれ変わりました。

佐藤さんは、200人に上る地権者から同意をとりながら、農地としての再整備に奔走。広大な土地を利用して始めたのがネギ栽培でした。

佐藤信行さん:「(最初は)排水不良や雑草で減収になった。それなりに収穫量も上がっているので期待したい」

農地を管理するため、農業法人「シーサイドファーム波路上(はじかみ)」を設立し、4年前からは、地元の人たちを雇用しながら、待望のイチゴづくりも再開しました。