■戦地に散った夫 残された妻、そして娘はいま
川﨑さんの住んでいた東京都世田谷区の一軒家には、今も1人の女性が暮らしています。

(川﨑文子さん)
「もう、よたよたでございますので…すみません。」
98歳の川﨑文子さんです。

1942年、18歳のときに当時画家だった雅さんと結婚しました。
僅か、1年10か月の結婚生活でした。
雅さんは、創作活動に没頭。文子さんは、画家として活躍する雅さんを支えました。


(川﨑文子さん)
「私がアトリエにあまり行くのはだめなの。『神聖な場所だからだめだ』って言うんですよ」


「朝起きたら、絵の具の入った小さな皿がいっぱい置いてあるでしょ。それを私が全部持って行ってきれいに洗ってあげると、それが『嬉しかった』って言っていました」

日本画を専攻し、風景を描くのが好きだった雅さん。その風景を求め、全国各地を訪ねていたといいます。

(川﨑文子さん)
「絵描きっていうのは、しょっちゅうスケッチに行くの、いろいろなところへ」

「それでわたしがさみしいでしょ、大きい家に1人で。そうしたら、スケッチに出て行った主人がすぐ戻ってきて私に言いに来たの」

『なるべく早く帰るからね、さみしいけれど我慢してくれ』って。
「私は、それでまあなんて優しい人かと思った」
■優しい夫との結婚生活は、突如終わりを迎えた

結婚の翌年、1943年。迫りくる戦火によって、幸せな結婚生活は突如終わりを迎えます。
(川﨑文子さん)
「こっちもさみしいけれど、子どももいるし、にこにこ笑った顔をしているじゃない。にこにこよ」

当時、生後6か月だった長女の千鶴さん。その千鶴さんの写真を、戦地の雅さんに送りました。
(川﨑文子さん)
「お雛様を飾った前で私が抱っこして、娘との写真を写してくれたのがあったの。それを送ってあげたら着いたの」

「それでちゃんとはがきが来たの。喜んで」
「『みんな元気か?』とかね、『千鶴は大きくなって可愛くなったね』とかね」

その写真を最後に、雅さんはその後の千鶴さんの成長を見届けることはできませんでした。

長女の千鶴さん自身が父を知る手掛かりは、遺された絵画だけです。

(長女 高木千鶴さん)
「絵を通してしか父のことは全然分からないんですけれどね。色合いが優しいし、優しい人だったんじゃないかな、って思っているだけでね…。実際の父は全然知らない、覚えてもいませんしね。」