息子の成長と母の手記

当時の和壽さんについて、母・シズさんは、戦後発行された回顧録に記していました。

和壽さんの母・シズさんの手記から「何んとしても陸士、海兵への進学率の多い済々黌に入るんだ」

和壽さんは済々黌を卒業後、京都府の機関学校に入学し、海兵への道を歩みます。

機関学校から届いた和壽さんからの手紙には、その頃に生まれた和史さんを思いやる言葉が綴られていました。

「弟が生まれてうれしい」

豊住和史さん「弟ができたっていうことを連絡したけん、向こうから良かったって」

機関学校の卒業後は転属をするなどして、熊本への最後の帰省は、1944年11月3日のことでした。

――お兄さんと話したことは?
豊住和史さん「全然ないですよ。まだ生まれたばかり」

ただ、母・シズさんからは、和壽さんのことをよく聞いていました。

豊住和史さん「兄はもう頑張り屋でですね。魚屋だったから、魚の配達から集金から。勉強しながら。済々黌に行きながら」

そして、最後の帰省から2か月半後、和壽さんは人間魚雷と呼ばれる特攻兵器「回天」で出撃し、戦死しました。