太平洋戦争末期、多くの若者たちが特攻隊員として出撃し命を落としました。思いを寄せた人を残し特攻に向かった一人の隊員の足跡が明らかになりました。
◆アメリカ公文書館に残る「特攻作戦」の映像

アメリカ軍の戦艦に突っ込む戦闘機。旧日本軍による特攻作戦です。大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」がアメリカの公文書館から入手した映像には、壮絶な最期の瞬間が記録されています。
提供:「豊の国宇佐市塾」
◆154人の若者が飛び立った滑走路跡

宇佐市には、特攻の歴史を伝えるものが今も残されています。
RKB岩本大志記者
「まっすぐ一直線に伸びる道路があります。ここはかつて滑走路だった場所で特攻によって多くの若者がここから飛び立っていきました」
◆154人には家族や恋人がいた

大分県宇佐市には、「宇佐海軍航空隊」という旧日本海軍の滑走路がありました。滑走路の近くにある石碑には宇佐市から出撃した特攻隊員154人の名前が刻まれています。
公文書や映像史料の収集や分析を行う「豊の国宇佐市塾」の平田崇英代表は、「国と国ではなく、そこで死んでいっている人が、みんな一人一人家族がいて恋人がいて兄弟がいて、かけがえのないその人の命だけではなくて、家族の命までみんな担っている。一人死ぬということは大変な数の人の喪失感をうむ」と話します。
◆22歳で特攻した京大生

福岡県遠賀町(旧遠賀郡遠賀村)出身の旗生良景(はたぶ・よしかげ)少尉もこの滑走路から飛び立った特攻隊員のひとりです。旗生少尉は7人兄弟の二男。現在の福岡高校に通っていた学生時代はラグビー部に所属、友人からの信頼も厚かったといいます。1942年(昭和17年)、京都帝国大学経済学部(現・京都大学)に入学。その約1年後の1943年(昭和18年)に学徒出陣し、特攻によって22歳で亡くなりました。
◆破魔矢を刺さなかった理由

宇佐市から鹿児島県の串良基地へ出発する前に撮影された写真。多くの隊員の背中には、宇佐神宮の破魔矢が刺さっていますが、旗生少尉の背中にはありません。「自分たちが国を守る」という意味が込められていた破魔矢。豊の国宇佐市塾の藤原耕さんは、破魔矢を刺さなかった旗生少尉の心の内を推し量ります。
「豊の国宇佐市塾」 藤原耕さん
「心残りがあったとしかいいようがありません。周りの空気に逆らって自分なりの・・・意思表示でもないし、『無意識』に近いんでしょうね」







