遺骨受け取りに上京する母が記事に
<毎日新聞山形版 1953年12月11日>
「戦犯息子の遺骨帰る 横浜で密葬の 幕田大尉遺族東京へ」
二十五年四月七日絞首刑となり、横浜久保山火葬場に埋められたBC級戦犯処刑者五十三名中の山形市の元海軍大尉幕山稔氏(当時三〇)の遺族は母とめさん(五七)と弟妹四人がめい福を祈っているが、十五日午後一時、東京護国寺の処刑関係者慰霊祭に出席、分骨を受けることとなった。
幕田稔氏は、山中(山形中)卒、海軍兵学校六十九期生で真珠湾、珊瑚海海戦に参加、石垣島で終戦を迎え横浜の軍事裁判で捕虜殺害を問われ、絞首刑となったもの。とめさんの語る裁判の模様は次の通り。
「二十年四月石垣島の特攻隊長として守備の際、同隊から約三十里離れた同島守備司令部から帰着命令を受けて帰ると撃墜されたグラマン戦闘機乗員、三名を斬首せよとの命令で、うち一名を斬首したが、横浜裁判では命令ではなく自ら進んで斬首したとの判決を受け、証人として出廷した司令部関係者も命令の事実を証言しなかった」
裁判の内容については、トメの話として記事になっているので、トメが把握していた内容を説明したものと思われる。実際には石垣島警備隊司令の井上乙彦大佐は裁判の終盤になって、法廷で自ら命令した事実を証言しているが、結局、米軍の筋書き通り「共同謀議」での判決となり、幕田大尉は死刑になった。
井上大佐の命令は、幕田に対して一人目の斬首を指示したもので、三人すべての処刑を命じたという資料も証言もない。幕田の起訴状も一人目の斬首と二人目を斬首した田口少尉を援助したことが罪状となっていた。しかし、初公判を報じた1947年11月23日の朝日新聞も、幕田が3人の米兵全員を斬首したことになっており、どこで間違えたのかが気になる。







