死因は「其の他」火葬証明書を発行
トメが残した資料の中に、幕田大尉の「火葬証明書」があった。遺骨を受け取りに行ったときに、渡されたのだろう。日付は昭和28年(1953年)12月15日で、発行者は当時の横浜市長、平沼亮三だった。死亡と火葬の年月日の欄には、「昭和二十五年四月七日」と記され、「死亡の場所」はスガモプリズンの住所が書かれていたが、死因は「其の他」とされていた。遺族への配慮がみえる。
そして、15日に遺骨を受け取って山形へ帰って来たトメを取材した記事が、地元紙の山形新聞に掲載された。12月17日のことだった。
<山形新聞 1953年12月17日>
「巣鴨の十三階段に散った 幕田元大尉の遺骨還る」
巣鴨拘置所でBC級戦犯として処刑され横浜久保山火葬場にひそかに埋葬されていた五十三名中の一人山形市の故海軍大尉幕田稔(当時三〇)氏の遺骨は十六日朝六時、母とめ(六〇)さんの胸に抱かれて七年ぶりに我が家に帰った。出迎えの人も見えぬさびしい帰郷であった。(写真は我が家にむかえ合掌する母とめさんと故幕田大尉)







