日本は1945年8月、ポツダム宣言を受け入れて連合国に無条件降伏した。このポツダム宣言の中には「戦争犯罪人の処罰」が含まれていた。東京で裁かれた「A級戦犯」で死刑が執行されたのは7人だが、捕虜虐待などの罪を問われた現場の兵士ら「BC級戦犯」は、アジア・太平洋の各国で裁かれ、合わせて920人が死刑になっている。東京のスガモプリズンで処刑された戦犯たちの遺体は横浜市の久保山火葬場で荼毘にふされたが、米軍が持ち去ったあとの残灰があることが分かり、1953年12月、遺族に分骨されることになった。その一人、山形市出身の幕田稔大尉の遺骨が帰ってくることが、地元の新聞で報じられていたー。
新聞で報道「戦犯息子の遺骨帰る」
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の処刑で、命を絶たれた山形市出身の幕田稔大尉。石垣島で米軍機搭乗員を殺害したことが、戦後、戦犯に問われた。幕田の母トメは、自宅に戦犯関係の記事が載った新聞をとっていた。トメは1952年4月、サンフランシスコ平和条約が発効する直前、米軍司令部に対して遺骨の返還を求める手紙を送ったが、半月後に届いた返事には、「処刑した戦犯の遺骨は返還しないという既定の方針に従い、返すことはできない」と書かれていた。火葬後に米軍が持ち去った遺灰は、A級戦犯と同じく、海に撒かれたとみられている。
しかし1年半後、久保山火葬場に米軍が残した骨灰が溜められていたことが分かり、分骨して遺族に渡されることになった。遺骨を受け取りに行く母トメの上京を前に、1953年12月11日、毎日新聞山形版にトメの写真付きで「戦犯息子の遺骨帰る 横浜で密葬の幕田大尉遺族東京へ」という記事が掲載された。幕田大尉のアルバムを開いて手にしたトメの写真と、背広に身を包んだ証明写真のような幕田の写真の2枚が使われている。(なお、幕田大尉の誕生日は1919年2月27日で処刑時は満年齢で31歳、母トメは56歳だが、記事はそのまま引用する)







