遺灰を持ち出した弁護士からの説明
<「嗚呼殉国六十烈士」殉国六十烈士奉讃会 1974年11月発行>
~井上忠男が聞いた東條かつ子夫人の話~
「昭和24年(1949年)5月3日、3年前東京裁判が開廷された日に、熱海の松井様のお宅に遺族が集まりました。その席上、三文字正平弁護士様から、『これは七人の方々の遺骨です。ご遺族の皆さんでお分けなさい』とおっしゃって骨壺を示され、遺骨を入手されましたいきさつについてお話がありました。『私は興禅寺の住職市川伊雄師と話合い、火葬場長の飛田美喜氏に七人の遺骨を取り出すことを秘かに申し入れた。当時火葬場は接収されて進駐軍の管理下にあったし、飛田場長は、私の申出に対してなかなか承知しなかった。彼がかつて軍籍にあったことを知って、国のためだ、勇気を出して決心してくれと私は説得これ務めた。場長だけでは遺骨を取り出すことはできない。現場主任の磯崎氏、係員三人も結局、彼等の義侠心というかに訴えて承諾させた。』
三文字弁護士は、遺族たちに久保山火葬場の飛田場長から聞き取った火葬の状況を詳しく報告している。
<「嗚呼殉国六十烈士」殉国六重烈士奉讃会 1974年11月発行>
~井上忠男が聞いた東條かつ子夫人の話~
「『飛田場長の話では、十二月二十三日早暁、久保山火葬場に米軍の手で運ばれ、粗末な棺に納められた七人の遺体は、厳重な警戒裡に火葬に付せられた。カマから取出された遺骨を米軍人が各人毎に鉄鉢に入れて粉末としたのち、一人ずつ黒い箱に入れて持ち去ったが、そのとき鉄鉢に入りきらぬ遺骨は、残灰や引取人のない行路病者の遺骨を埋葬する穴に飛田場長以下日本側係員をせかせて入れさせた。元来この穴に残骨等を納めるのは、火葬場が休みの友引きの日に行う習慣であるのに、友引きの日を待つことなく、その場でいれさせられたものである。そこで、穴の中の残骨の上積みの新しい白いものを内輪目に取り出せば、七人の御遺骨に間違いない。そのようにして、これを取出し骨壺に納めて秘かに興禅寺に安置しておいた。これがその御遺骨である。』というような三文字様のお話でございました。」







