運命を共にした七人は一緒に
A級戦犯7人分が混ざった残灰を分けて持ち帰ることを三文字弁護士から提案されたことに対し、東條かつ子夫人は次のように話したという。
<「嗚呼殉国六十烈士」殉国六重烈士奉讃会 1974年11月発行>
~井上忠男が聞いた東條かつ子夫人の話~
「遺骨を分配するための紙袋がくばられました。三文字弁護士は、お話のあと『どうでしょうね』と申されました。私はお集りの遺族のうちで一番の年上でございましたので、次のように申上げました。『それぞれの家に持ち帰りますれば、自然に誰れが持ち出したかなどと噂がたたぬともかぎりません。そのときは、身命を賭して遺骨をお取り出し下さいました三文字先生始め御関係の皆様にご迷惑を掛けることとなり、誠に相済まぬこととなりましょう。分けて持ち帰ることは避けた方がよいのではないでしょうか』と。そのときの私の気持の中では、ほんとうにこれが主人だけの遺骨であるならば、どんなことをしても持っていたいと思いましたが、七人の方々の遺骨がまじるものであれば、運命を共にした七人が一緒にあることでよいのではないかという考えがありました。私の発言に遺族の皆様もご同感のようでございました。そして『松井様にお預けしましょう』ということになり、三文字様も『それでよかろう』とおっしゃって頂き、松井様もご承諾され、何ら抵抗もなく、そのようにきまりました。かようにして松井石根大将が願主となって、昭和十五年二月二十四日建立された伊豆山の興亜観音の御堂に安置いたすこととなったのでございます。」
三文字弁護士の遺骨奪還の経緯は、実松譲著「巣鴨」(1972年図書出版社※「巣鴨獄中記」に改題して2009年光人社より文庫)に詳しい記載がある。遺骨は興亜観音に預けられたあと、1958年ごろ松井石根の郷里である愛知県で遺骨を納めて墓碑を建立する土地を幡豆町(現在は西尾市に編入合併)三ヶ根山頂に得て、1960年7月17日、元陸軍大将・荒木貞夫が特徴ある筆致で大書した高さ四メートルの「殉国七士墓」の碑が完成した。







