スガモプリズンで処刑された戦犯たちの亡骸は、横浜市の久保山火葬場に運ばれ、荼毘にふされた。米軍は、戦犯たちの遺骨が神聖視されないように、遺族に引き渡さなかったが、当時、引揚援護庁復員局法務調査課長だった井上忠男は、「遺骨が残っている」という情報を得て調査を開始、米軍が残していった骨灰が、火葬場にあることを確認した。BC級戦犯の遺骨を分配して遺族に引き渡そうと動いた井上は、その前に持ち出されたA級戦犯の遺骨の行方と遺族に分配されなかった理由についても確認していたー。
遺灰を取り出し60箱に分けることに
元陸軍大佐で、法務省参与として長く戦犯裁判の調査に関わった井上忠男は、1975年(昭和50年)に行政通信社が発行した「人と日本」に「巣鴨戦犯遺骨の埋葬秘話」のタイトルで、戦犯たちの遺骨の扱いについて記録を残していた。スガモプリズンから久保山火葬場に運ばれたのは、A級戦犯7人とBC級戦犯53人のあわせて60人。(BC級53人のうち51人が横浜裁判で死刑判決)火葬台帳を調査して、戦犯たちがここで火葬されたことを確認し、米軍が持ち去ったあとの残灰を入れる穴に残っていたものを掘り出して、60個の遺骨箱に分けて遺族に渡すことになった。1953年12月14日が骨灰を取り出す日と決まった。
A級戦犯の遺骨については、東京裁判で小磯国昭元首相(判決は終身刑)を弁護した三文字正平弁護士が、1948年12月の死刑執行後、久保山火葬場から7人の遺骨を奪還しようと画策したことが知られている。同じく残灰を入れる穴から火葬後すぐに取り出したもので、1953年当時は熱海伊豆山にある興亜観音にひそかに安置されていた。







