◆遺品の中に「マッカーサー元帥への手紙」

成迫忠邦の通院証明書(国立国会図書館所蔵)

成迫忠邦の死刑が執行されたのは、1950年4月7日。10日後、遺品の受け渡しの書類にあったリストの最初にマッカーサー元帥宛ての手紙があった。

福岡におかれた西部軍で米軍機搭乗員を殺害してBC級戦犯に問われ、死刑囚としてスガモプリズンの死刑囚の棟(五棟)にいた冬至堅太郎の手記の中に、成迫が書いたマッカーサーへの嘆願書の話が出てくる。

<冬至堅太郎「苦闘記」1952年>
石垣島事件七人の最期については更に特筆すべきことがある。それは成迫さんと、もう一人、これも二十代の藤中さんの二人が、今生最後の筆をとってマ元帥宛に「死刑執行は我々限りとし、あとの死刑囚は減刑されたし」との嘆願書を書かれたことである。恐らくはこの嘆願書は百万人のそれよりもましてマ元帥の心を打ったことであろう。それかあらぬか、死刑執行はこの七人で止まり、残余の十九人は(昭和)二十五年の末迄に全員減刑されたのであった。

成迫忠邦の遺品リスト(国立国会図書館所蔵)

なお、榎本宗応のリストにも、やはり一番上の項目にマッカーサー宛の手紙があった。また、石垣島警備隊司令の井上乙彦大佐のリストには、手紙ではなく、マッカーサー宛の「嘆願書」と記されていた。この井上乙彦の嘆願書は、「世紀の遺書」(1953年巣鴨遺書編纂会)や、「わがいのち果てる日に」(田嶋隆純編著2021年復刊講談社エディトリアル)に掲載されている。

◆七氏を偲びて 一周忌に追悼文集

「七人を偲びて」昭和二十六年四月 一周忌法要に際して 石垣島事件関係者有志一同

石垣島事件で死刑執行された7人を偲んで、一年後に有志によって追悼文集が作られた。編集を担当したのは、事件当時、石垣島警備隊の照空隊長だった北田満能兵曹長。熊本県の出身で、一審で死刑を宣告されたあと、マッカーサーによる最後の再審で重労働30年に減刑された。藤中松雄と同房だった時もある。編集後記にこのように記している。

<「七氏を偲びて」後記 北田満能>
この編集を想い立ちましたのは、昨年の五月、故七氏の四十九日法要を同士相集い、六棟二十四号房に於いて行いし時でありました。同時にその席上に於いて、佛教の慣例によって、以後情況の許す限り法要を続行すべく一同申し合わせを致しました。


しかし、獄中での作業でもあり、また処刑された戦犯に対して白い眼を向ける傾向などもあって、編集と印刷は伸び伸びとなった。だが「時運はようやく正常に戻りつつあるので、一周忌法要を営むにあたり、追悼文を集めて霊前に捧げると共に、遺族のもとへ送ることができた」ということだった。文章を寄せたのは、石垣島事件で死刑囚となっていた12人で、そのうち北田を含む5人は最後の再審で減刑され、亡くなった7人と生死を分けた人たちだった。そのほか死刑囚の棟で交流があった西部軍の福島久作少将が特別寄稿した。