3歳で「自閉症」と診断された
1981年6月に誕生した宏介さん。3歳児検診で、自閉症と知的障がいがあることが分かり、療育施設「コスモス学園」(当時)に通うことになった。

母 太田愛子さん(75)「初日に園長先生から『とにかく子供を褒めて認めて、受け入れて下さい。子どもは物凄く敏感です。注意されたことで、自分はダメだーと殻に閉じこもってしまうんです。全てを受け入れてやさしい言葉で接してあげてください』と言われました。学園で教えてもらった粘土遊びが気に入って、3時間でも4時間でも一人黙々と粘土遊びに集中するような子供でした。粘土遊びの手つきが良くて『この子、器用なんだ』と思ったんですよ。上の子2人はとても不器用で絵なんか描きませんし…(笑)。でも宏介の手先を見た時に『こんなに器用なら何かできることないのかな?』と考えたんです。」
一方で、急に大声を出して走り出したり、極端な偏食だったりと、自閉症特有の行動には悩まされていた。
そうした中、「宏介が何かできるようになれば…」と一縷の望みをかけて訪れたのが隣町に出来たばかりの「松澤造形教室」だった。

母 太田愛子さん「教室を主宰する松澤佐和子先生からは最初、『障がいのあるお子さんを見させてもらったことはないから無理です』と断られました。でも先生にお会いした時『絶対この人だ』と直感し、逢うだけでも…と宏介を教室に連れて行きました。どうかおとなしくしていてくれますようにと心の中で祈っていましたが、靴を脱いだ途端パーッとリビングに入り、テーブルやピアノの上をぴょんぴょん跳ね回りましてね。もうだめだ…と思っていたら先生が『お母さん、明日からどうぞいらしてください』と仰ったんです。」
松澤佐和子さんによると、初めて教室に来た宏介さんは、窓ガラスにレースのカーテンがなびいているのを見て「わー、綺麗」と呟いた。その様子を見て、宏介さんに感性の豊かさを感じ、指導を引き受けたという。
しかし母・愛子さんによると、当時の宏介さんはある現象を見て何か言葉を発することなど全くなかったという。松澤さんにはそう聞えたのか、天の声だったのか。ともかく宏介さんは10歳になる直前に、絵を習い始めた。
チューリップを描けるようになるまで3年かかった
宏介さんとの付き合いが30年を超えた松澤さん。教室に来たばかりの頃は全く意思の疎通が出来ず、5分と椅子に座ることがなかった。
宏介さんは粘土は好きだが、絵に興味がなかったのだ。まずは、好きな粘土細工に絵の具を塗ることから始め、続いてクレヨンでの線描きを教えた。3年後、ようやくチューリップの花を、見ながら描けるようになった。

絵の師匠 松澤佐和子さん「宏介さんは、ものを見て描くことが当時は出来なかったんですよ。チューリップも『英語で言うとUみたいな形だよね』と簡単な形に例えて説明していきました。宏介さんにもインプットされていくので、複雑に見える花もシンプルな形から入っていくことで、本質的なものが捉えられるようになったんです。それでチューリップがやっと描けるようになって、チューリップ掛けるのにどれだけかかっただろう。見て描けるのになるまでに3年ぐらいかかりました。」
宏介さんには独自の色彩感覚があると話す。
絵の師匠 松澤佐和子さん「線が面白いんですよね、宏介さんの場合。そして独自の色彩感覚があるので、こういう所は絶対つぶさないようにしなきゃ、と思いました。自分が教えたいことを押し付けるのではなく、彼が持っている本来の才能を壊さない様に指導しました。」
草間彌生さんの隣に作品が展示された

転機は、2002年、宏介さん21歳の時に訪れた。
福岡市美術館で開催された「ナイーブな絵画展」に、宏介さんの水彩画「ワタリガニ」が、岡本太郎、山下清ら巨匠の絵画と共に展示されたのだ。
絵の師匠 松澤佐和子さん「福岡市美術館の館長が宏介さんの絵を高く評価してくださり『いっしょに出品しませんか』と声をかけてもらいました。展示作品「ワタリガニ」は本物のワタリガニを仕入れてきて、宏介さんに描いてもらったものです。すると実物とは全く違う色が出てくるんですよね。『わー、面白いな、この子凄いなあ』と思い、館長にお見せしたら、『素晴らしい』と。『草間彌生さんのお隣に並べたっておかしくないよ。独自の境地を切り開いている』と言われて。有難かったです。」
実際、宏介さんの「ワタリガニ」は、草間彌生の作品の隣に展示された。
宏介さんの兄・信介さんは、こう振り返る。
兄 太田信介さん「同年に紺綬褒章を授与された草間彌生さんの作品が展示されている所は黒山の人だかりでした。その大勢の人々が宏介のワタリガニを見て『これも良いね』と口々に褒めていたんです。その時に、弟は本当に画家になるかもしれない…と思いましたね」