任期の途中でも声をあげることはできる
こういうことが明らかになっているのに加え、次々に出てきた「おねだり体質」。メディアによっては揶揄するような言い方もしていますが、これだけ報じられているので、実際そういうこともあったんだろうなと思わざるを得ません。
なんでこんな人が選ばれたんだろう、というところまでどうしても考えてしまいます。もっとも、選挙から数年経つと、「あのときの選挙で、何で選んじゃったんだろう?」というのは国政も含め色んなところである話です。
こんな時に「次の選挙ではそういう人を選ばないようにするしかない」と言う人がいますが、僕は首長の振る舞いや政治手腕に対して疑問を持った場合、次まで待たずに声を上げるべきだと思います。任期の途中であっても処遇に対して民意を突き付けることができるわけですから。
仮に斎藤知事に票を投じた人であっても「あのときの自分は間違っていた」と素直に認めてリコールするのもいいと思います。選んでしまったということの過ちを認めることは有権者も、ある種の胸の痛みが生まれるかもしれませんが、人間が人間であることのリスク、あるいは集団で生活を営むうえでのリスクと思うしかないんじゃないかと思います。今、斎藤知事は1期目ですが、「任期までは」という意図があからさまに出ていますね。
人が亡くなっている重みを考えるべき
全国的な問題になっていますが、初めは「ほとぼりもいずれ冷める」と思っていたんでしょう。この鋼のメンタルを持っている人を相手にどうやって説得するのか。進言する人はたくさんいてもこうなっているわけですから。
その他にも「エレベーターのボタンも押せないのか」と恫喝したことなど、細かいことも言われていますね。それを聞いて音楽業界のある名の知られた歌姫も、レコード会社のエレベーターをずっと開けて待ってなきゃいけないという話を思い出しました。
結局そういう人ってやっぱり周囲も離れていきますよね。最近は斎藤知事の細かいパワハラの事例がオンパレード状態なので、報道の優先順位として後回しになりがちですが、この問題をめぐっては元局長が亡くなっています。
今、亡くなったことをあまり報じなくなっているので、改めて重みというものを考えて、面白おかしくパワハラの事例をただ揶揄するのではなく、地方自治体の長にふさわしい資質とは何かということを、兵庫県民以外の私達も考えるべきじゃないかと思います。