「長女は何とか生きていてくれた」しかし高熱・嘔吐に苦しみ…

次女の純子さんは、いまの平和公園(広島・中区)の南側あたりで、建物疎開の作業をしていました。爆心地からわずか500メートル。作業に当たっていた市女の1・2年生は541人。全員が死亡しました。純子さんの遺体が、見つかることはありませんでした。
長女の恒子さんは、友だちとの待ち合わせ場所に向かう、電車の中で被爆しました。気絶していたところを助けられ、翌7日、救護所となっていた小学校に運ばれました。この小学校の近くに住む友人が、恒子さんを見つけて、家で看病していました。
しげ子さんの手記より
「七日も長女の生死が判明しないので、当てもなく探し歩いたがだめだった。出かけようとしているところへ、長女のお友達が、長女がお世話になっていることを知らせてくださった。私は天にものぼる気持ちで、午後4時頃お友達と一緒にお宅へ急いだ。長女は皆様のお陰で、どうやら生きていてくれた。死んだと思っていた私を見て、涙をボロボロこぼして抱き合って泣いた。やけども大したこともなく、熱も下がり食欲も出たら元気になるだろうとホッとした。『妹はどうした』と聞いたので『どうもだめらしい』というと『あんなにかしこい子だったのに私が変わってやればよかった』と泣きじゃくった」

恒子さんに、大きなけがはありませんでした。しかし放射線の影響か、高熱や嘔吐、下痢に苦しめられていました。何か少しでも食べさせようと、重湯を少しずつスプーンで口に注いでいきましたが、飲み込むことはできませんでした。血を吐くこともあったといいます。恒子さんは、うわごとを言うようになり、「家に帰りたい」と繰り返していたといいます。
しげ子さんは、借りてきた大八車に恒子さんを乗せ、自宅へ連れて帰ることにしました。「苦しい、苦しい」という娘を、「もう少しだから我慢してね」となだめながら家路を急ぎました。しげ子さんは数日間、ほとんど寝ていなかったため、倒れそうになりながら、疲れた足を引きずり自宅を目指しました。
しげ子さんの手記より
「ようやく空家同然の目茶苦茶に壊れた我が家にたどりついた。ご近所の方達に手伝ってもらって落ち込んだ座敷の片隅に寝かせた。とても苦しそうで見ていられなかった。大八車を返さなくてはならないので『お母さん、お母さん』という娘を一人残して、隣組の方に頼みに行って帰るとすぐ『お母さん』と云ったきり息を引き取ってしまった。丁度六日の原爆にあった同時刻であった。私は余りのショックでしばらくは涙も出なかった。あゝ2人の子供は遂に死んでしまった」