12年前、2013年8月6日の早朝ー
細川浩史さんは広島市中区小網町の天満川のほとりにいました。いつも持ち歩いていたライカを手に・・・。そのときやってきた広島電鉄の車両を指さしながら、浩史さんはつぶやきました。

細川浩史さん
「きっとあの電車に乗ったんですよ、652。やはり感慨深いですね、もしかして乗っているんじゃないかと。そんなことありえませんけどね」

浩史さんの妹の瑤子さんは、1945年8月6日、爆心地から800メートルのこの場所で、建物疎開中に被爆。大やけどを負い、当日夜に亡くなりました。13歳でした。

浩史さんは生前、この場所を訪れる度、最愛の妹を喜ばせたいと川にキャラメルを捧げていました。

自身の被爆体験と、妹の生きた証を次の世代に伝えるため、精力的に証言活動も続けてきました。

この日、浩史さんが原爆資料館で案内していたのは県外から訪れた小学生。子どもたちの目をしっかり見て、語りかけました。

細川浩史さん
「僕の妹も原爆によって殺されたのよ。ちょうどあなたの一つ上よ。だから戦争はあってはいけないの」

そんな父の思いを継ぐため、洋さんは、広島市の家族伝承者になりました。息子の挑戦を見届けた浩史さんは2023年11月、95歳で亡くなりました。

父・浩史さんから預かり、守り続けた瑤子さんの日記。洋さんは、被爆80年の節目にあわせ、ほかの遺品とともに原爆資料館に寄贈することを決めました。
「被爆90年とか100年とか言うと、私自身、今年で66歳なので、その頃まで自分が活動できているかな、また生きているかなと言うことを思ったら、今回がちょうどいい節目かなと」