1955年 初めて被爆者の訴えが世界に

流れが変わったのは、被爆から10年後の1955年。アメリカの水爆実験で「第五福竜丸」が被ばくしたことをきっかけに、第1回「原水爆禁止世界大会」が開かれました。
被爆者の訴えが初めて全国、そして世界に向けて発信された会議には、阿部さんも出席していました。
第一回原水爆禁止世界大会での被爆者の訴え
「今後どうして生きようか、そんなことを考えると今のうちに死んでしまいたいとおっしゃいます。でもあたしたちが今死んでも、この原爆という恐ろしいことを世界中に誰が知らせてくれるんでしょうか」
阿部さんは、声を上げ始めた被爆者たちとともに、被爆者の援護や原水爆禁止を求めて国会に請願をしました。

阿部静子さん
「10年間もほっとかれたんですよ、あの未曾有の大災害があって、怪我人は大怪我をして、体は弱いし苦しんで、お金はないし、慰謝料もかかられず、10年間も苦しみ、あげく陳情に行ったわけです」
そこで、後に総理大臣となる広島選出の池田勇人議員からこう言われたといいます。
阿部静子さん
「『日本はアメリカに弱いからね』とおっしゃいました。アメリカに気兼ねをして我々を今まで放置されたんかと思ってむっとしました。今度いらっしゃる時は、組織を作っていっしゃいと知恵を授けてくださった。バラバラで行ったのでは力がないから」
被爆者の願いを集め、日本被団協が誕生しました。


































