1944年7月、米軍にサイパンが占領されると日本政府は、南西諸島の10万人の住民を九州や台湾に疎開させるよう指示しました。その疎開船のひとつ「和浦丸」に乗船した新里善雄さん(93)の戦争体験です。

和浦丸は、米軍の攻撃で沈没した学童疎開船「対馬丸」とともに那覇港を出航した船です。

「和浦丸」(対馬丸記念館提供)

82年前、対馬丸が沈没したとき、自身もいつ攻撃を受けるか分からない恐怖に包まれた和浦丸の船内はどんな様子だったのか、新里さんが語ってくれました。

新里善雄さんは「和浦丸」に乗船した一人です。大里村出身で、当時、大里第一国民学校の5年生でした。

新里善雄さん:
「最初は対馬丸に乗ろうとしているけど、大里第一国民学校は前の和浦丸に乗れと言って、変更して行っているわけ」

新里さんら島尻地区の人々は対馬丸に乗船予定でしたが、船が変更になりました。

「沖縄にいると、イモしか食べることができないから、内地に行ったら銀飯(白飯)があるからといって、喜んで友達同士(疎開の)準備していたよ」

1944年8月21日、那覇港に集まったおよそ5000人が、「対馬丸」「和浦丸」「暁空丸」の3隻に分かれて護衛艦2隻と共に出航しました。

出航から2日目の夜10時すぎ、対馬丸が米軍の魚雷攻撃を受け和浦丸では、甲板に上がるよう指示があったといいます。

ーー船内の様子は
「魚雷が近寄って来ているから、(甲板に)上がれと言って。はしごから甲板に上がっていくから。力勝負さ。男も女もみんなごっちゃで上がっていくから。(女の子は)男に引きずり降ろされたりして。魚雷が当たったら海に飛び込めと言って指示がありました」

その後、和浦丸は無事長崎に到着し、新里さんは疎開先の熊本へと向かいました。

1944年に米軍が傍受した日本軍の無線の翻訳記録によると、和浦丸、暁空丸、対馬丸が8月16日に上海から那覇へ向けて出航することを知り、潜水艦が追っていました。当時、日本軍は米国の潜水艦部隊に暗号を解読されていたのです。

息子の豊さんは、以前、善雄さんから子どもの疎開を辞めさせた家族の話を聞いていました。

長男 新里豊さん:
「とにかく、船に乗って行くというのは危険だと、一般市民にも伝わっているみたいで。疎開に送り出したときでも、(出発前に)夜になったら親がやっぱり行かせないということで、旅館から手を引っ張って連れていったということも言ってはいたんですね」

幼い頃に母を亡くし、祖母のカメさんに育てられた善雄さん。カメさんも、疎開に強く反対していたといいます。

豊さん:
「疎開と言ったら、友達同士で修学旅行みたいな感覚で行ったと言っていたけど、おばぁは猛反対だったっていっていたさね。おばあ、何か父ちゃんに言っていたんじゃない?」

善雄さん:
「わんねー、墓に送ってから、やーや行けって(私を墓に送ってから、あなたは行きなさいと)」

豊さん:
「要は自分が亡くなった後に行きなさいっていう」

善雄さんは、熊本県でおよそ2年間の疎開生活を送りました。

「(祖母に)手紙を送っても返事はないし、沖縄がどうなっているのかも情報も秘密みたいになって」

沖縄に戻ったとき、カメさんが沖縄戦で亡くなったことを知ったといいます。

善雄さん:
「(祖母の死を)もう話を聞いて、泣くだけであって。何も言えなかった」

豊さん:
「(戦争の記録は)証言で検証していかないといけないと考えたときに、体験者はいなくなっていくので、受け継いでいくことは必要かなと思いますね」

慰霊の日が近づくと、自身の戦争体験を息子に伝えてきた善雄さん。その記憶は、豊さんはじめ家族へと受け継がれています。