NBC被爆80年シリーズ企画「銘板が伝える8.9」。第7回は、爆心地からおよそ1.4キロにあった「浦上第一病院」。自らも被爆しながら、治療にあたった秋月辰一郎医師が遺した証言とは。

爆心地から北東におよそ1.4キロの場所にある聖フランシスコ病院。
玄関のすぐそばに当時の被害を伝える銘板があります。

この場所にはかつて「浦上第一病院」がありました。赤レンガ瓦葺きの鉄筋コンクリート3階建て、フランス風のエキゾチックな建物でした。

原爆投下当時の入院患者はおよそ70人―。

建物の外郭は残りましたが、内部は爆風によって一瞬にして破壊され、医薬品も、機材も、3000冊の書物も全焼、入院患者も多くが火傷を負いましたが、死者はいませんでした。

原爆投下後、病院には負傷者が続々と詰めかけました。救護のため、8月11日に病院裏門近くに仮治療所が設けられました。

負傷者の親が持ってきた武を本に切り、布を張った野戦病院のようなテント張りの治療所でした。

救護に当たったのは秋月辰一郎医師以下、職員、医大生、そして軽症患者総勢およそ20人。秋月医師は、自らも病院内で被爆しながら、原爆投下直後から負傷者の治療にあたりました。

秋月辰一郎医師:
「髪の毛が抜ける、紫になるという人が出てきて死んでいくー。はじめは血便するから赤痢かなとか紫斑病かなと思ったけど、どんどん死んでいくんですね」

被爆後、病院には、多くの人が治療を求め、押し寄せました。秋月医師は当時の思いをこう振り返っています。

秋月辰一郎医師:
「薬はない。全身やけど、泣き叫ぶ子ども…。家は焼かれてね。私、逃げ出したいと思いましたね、逃げたいと。しかし知った顔がおるんですね、そのなかに。知った顔がおるから逃げられない」

日常を、人々の命を奪った原爆。80年前、この病院で何が起きたのかを銘板は伝え続けています。