超弩級戦艦「武蔵」。この船を建造した造船所がある長崎市の人にとってその名前には兵器であることを超越した特別な響きがあります。そして2024年は「武蔵」が沈没して80年の年でした。空前絶後の武装と防御を備え”不沈艦”と呼ばれた武蔵は何故、何の戦果も挙げることなくあえなく沈没してしまったのか?NBCでは1995年、元乗組員や日本海軍の幹部、そして造船部門のキーマンとされる人たちを取材して「武蔵」とは?そして、その意外な”弱点”を取材し放送していました。その後の取材結果も加えて沈没から80年の年、改めて戦艦「武蔵」に迫ります。

「武蔵」の対空兵装 Naval History and Heritage Command

史上最多の攻撃を受けた武蔵

対空兵器強化で全身をハリネズミのようにした「武蔵」は、乾坤一滴の捷一号作戦に投入され、1944年10月22日、ボルネオ島のブルネイを出撃。援護の航空機皆無の中、レイテ湾上の敵艦隊を目指した。

レイテ湾を目指す日本艦隊 右から二隻目が「武蔵」(Naval History and Heritage Command)
米軍の攻撃を受ける戦艦武蔵 Naval History and Heritage Command

1度の戦闘で3本程度と予測した命中魚雷は20本を超えた。15時30分、ようやく敵機の攻撃が終わったが。徐々に浸水が広がり「武蔵」は瀕死の状態だった。それから4時間耐え続けたが、力尽きた「武蔵」はシブヤン海に消えた。竣工から812日での沈没。これに対し武蔵建造に擁した時間は1591日。46センチ主砲の爆発的破壊力を1度も発揮することはなかった。

「軍艦武蔵戦闘詳報」

「武蔵」の激しい戦闘の状況を伝える軍艦武蔵戦闘詳報によると、5時間に及ぶ攻撃で「武蔵」が受けた被害は爆弾17発、至近弾18発。魚雷は左舷13本、右舷7本、合計20本。特に魚雷20本という数字は桁外れといってもいいもので、「武蔵」の船体の強靭さを証明するものだった。戦艦「武蔵」は海上を航行中の艦艇としては史上最多の攻撃を受けた。

戦艦「武蔵」をどう評価する?

「武蔵」乗組員でもあった千早正隆さんはこう語っていた。

千早正隆さん

「人間はね、大きなものには憧れ持つんだな。憧れ持つよ。で、大きなものがね、全部が偉大かといってたら別だよ。しかしね、あれにのっとるとね、これは偉大だという感じになるね」。

力尽き沈みゆく戦艦「武蔵」(Naval History and Heritage Command)

「アメリカの戦艦と正面から向き合い戦ったら武蔵が圧勝していたに違いない」。と評する意見は今でもある。しかし、戦艦対戦艦は「武蔵」が生まれた時代には起こりにくい戦いの形であった。

歴史上の英雄にも当てはまるが、特に志半ばで亡くなった人たちの評価には幻想や願望もついて回る。兵器であった「武蔵」に人々がある種の憧れを抱くのは建造につぎ込んだエネルギー、そして建造時には想定していなかった航空機による攻撃で完成からわずか2年、”志半ば”で沈んでしまったという悲劇があるからかもしれない。

海中に没した「武蔵」は2015年3月シブヤン海の海底で発見された。潜水調査船映像が映し出したのはかつての威容ではなく、想像を超えるまでにバラバラになった「武蔵」の姿だった。長年「武蔵」は原形をとどめたまま沈没していると考えられていたが、その想像を覆すほどの破壊だった。海中に没する段階で弾薬庫内で主砲弾などが爆発し強靭だった「武蔵」の船体をバラバラにしたと見られている。史上最強の破壊力が自らに向けられたといってもいいような最後であった。海中に眠る「武蔵」の残骸。それは威厳や誇りでさえ容赦なく打ち砕く戦争の無常さを伝えているように感じた。(NBC長崎放送 長征爾)