「2人そろってリレーの選手」禎子さんの親友を訪ねる
千羽鶴を収めた一行はこの日、ある人と会う約束をしていました。広島市内に住む、禎子さんのクラスメートだった川野登美子さん(83)です。


(川野登美子さん)
「跳び箱を体操の時間に七段以上飛べたのは、その当時、女の子では禎ちゃんと私だけ」
仲良しだった2人は、そろってリレーの選手。小学校6年生の秋の運動会では見事1着になりました。しかし禎子さんはその後発病し翌年2月に入院。川野さんは、病室で鶴を折る禎子さんの姿を覚えています。

(川野さん)
「(禎子さんが)なぜ折ってるかっていうのは、一切聞かなかったし聞けるような雰囲気でもなかった。というのがね、原爆病で入院したら、もう命を助からないっていうことは、当時の広島中の人が知っていたから。最後頃は8月に見舞いに行って、それからは行ってなかった」

見舞いに行けない中、1955年10月25日、禎子さんは亡くなりました。悲しい折鶴の記憶。それでも…
(川野さん)
「でも私ね、(千羽鶴を)この名古屋の女学生が送ってくださったという話をずいぶんあとで聞いたときに、涙が出るほど嬉しかったです。それはね、禎ちゃんに目的ができたっていうことでしょ。あれがもし何もなかったら、禎ちゃんもっと苦しかったんじゃないかと思ってね」

川野さんたちはその後、原爆の子の像を作る運動を始め、募金の輪は日本全国に拡大。禎子さんが亡くなった3年後の1958年5月5日に、原爆の子の像は完成しました。
原爆資料館には、禎子さんが折った鶴が残されています。羽根を広げても2センチほどの鶴。
(生徒たち)「むっちゃ小さい」
(先輩たち)「絶対直りたい直りたいっていう気持ちがこもっている。必死になって折った」

大先輩たちとの折り鶴の旅は終わりました。
(愛知淑徳高校2年生 左右田真理さん)
「鶴を最初に贈った先輩たちと広島を訪れて、原爆の子の像の前に折り鶴を捧げることができてとても嬉しかった。私たち若い世代が平和を守っていかなければけないと強く感じた」
広島の地で握手を交わします。
「ありがとう これからも頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」

収められた千羽鶴には生徒たちの言葉が書き添えられていました。
「禎子さん、今もあなたの鶴は飛び続けています」
平和を祈るバトンは、ひきつがれていきます。
