■柳トレーナーとの出会い

畑山「その先生に2週間ぐらい後ろから見られてる感じがするんですけど、一言も声をかけてこないんですよ。そしたら2週間が経ったある日、『畑山ちょっとお前スパーリングするしてみろ』と。ということでプロの選手とスパーリングをしたんですよ。そしたら難しい顔して…
『畑山、お前何のためにボクシングやっているんだ』って言うので、『いや僕は世界チャンピオンになりたくて青森から出てきたんです』って言ったら、先生がしばらく考えたあと『よし!お前、俺と一緒にやるか!俺と一緒にやったら俺が必ず世界チャンピオンにするから』と言うんですよね。ほら!来た!とやっぱり見る人が見ればわかるんだ。それで、そこから柳先生とのね二人三脚が始まった」


柳トレーナーは勝つためだけのボクシングだけではなく、大衆に喜ばれ、ファイトマネーがきちんと取れるボクシングを畑山に教えた。


畑山「そういう人が(見て)楽しいボクシングっていうのは、やっぱり僕みたいに打ち合うボクシングなんですよね。そのボクシングをするには大変なんです。大変なんですよ。走れないといけない、ロードワークもしないといけないし、体力がなきゃできないボクシングなんで」

1993年のデビューからわずか半年で東日本新人王、さらに翌年には全日本新人王を獲得。
その後も東洋太平洋スーパーフェザー級王座、そしてWBA世界スーパーフェザー級王座を獲得。


畑山「人と出会ったっていうのも含めて全部、運は当然あったんでしょうね。ただ一つ言えるのは、僕はプロボクサーとして10年間当たり前のことを当たり前のように毎日できた。あんだけ努力することなんかありえない、あんだけ苦しかったこともありえないと思うんで。もう毎日の努力の積み重ねじゃないですか」


しかし1999年防衛に失敗。24歳の若さで引退。ところが翌年すぐに引退を撤回する。