◆周恩来の回答に「からだが震えた」

竹入委員長は、当時の中国首相、周恩来と北京で3日間連続して会談した。中国側も、田中内閣誕生を、国交正常化のチャンスだと認識して、真剣に、竹入さんと向き合った。日本側が前提条件にしていたのは、二つ。一つは「日米安保体制を容認すること」。もう一つは「中国が日本に対して賠償請求を放棄すること。その確約がほしい」――。

先述したとおり、日本の外交はアメリカと行動をともにすることが基軸だ。そのための日米安保体制がある。賠償請求ついては、戦争の間、日本は中国大陸で多くの人命や財産を奪ったという、歴史の事実がある。

この条件に対し、周恩来は言った。「日米安保条約には触れません」「賠償請求権も放棄します。毛沢東主席も了解している」。つまり、日本と中国の間で、国交を正常化する時に共同声明をつくる。その中には「日米安保体制には言及しない」「日本に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」――。そう確約すると、周恩来は言い切った。

中央大学教授の服部龍二教授の著書に『日中国交正常化』という本がある。賠償請求を放棄すると言った周恩来の言葉を聞いた竹入さんが、当時を回想している。

“「500億ドル程度、払わなければいけないかと思っていたので、まったく予想もしない回答に、からだが震えた」
「周首相の言葉がジーンときた。日本の心を読んでいた。日本側に仮に払う気持ちがあっても、中国側が賠償問題を言い出せば、自民党側がまとまらなくなることも、見抜いていた」”


ただし、中国側は周恩来の発言を、正式な文書にはしていない。だから、竹入さん側はそれを必死に書き取った。そして、中国側に示して、これで間違っていないか、何度も確認した。ニュアンスであれ、間違っていれば「話が違う」ということになってしまうからだ。

◆日中国交正常化の道を開いた「竹入メモ」

竹入さんはこの会談結果を日本に持ち帰り、田中角栄総理に伝えた。8月初め、竹入さんは田中総理らに会った。箇条書きのメモをもとに、周恩来の示した「日中共同声明の案」や会談記録を見せた。そこで田中総理と、竹入委員長の間で、こんなやりとりがあった。

(田中角栄)「読ませてもらった。この記録のやりとりは間違いないな」

(竹入)「一字一句、間違いない。中国側と厳密に照合してある」

(田中角栄)「間違いないな。お前は日本人だな」

(竹入)「何を言うか。正真正銘の日本人だぞ」

(田中角栄)「わかった。中国に行く」

それまで積極的ではなかった田中総理は、自ら北京に乗り込み、国交正常化交渉に臨むことを決断した。このメモはのちに「竹入メモ」と呼ばれる。メモとはいえ、正常化交渉のための、双方が合意できる点が、文書になったのはこれが初めてだ。

田中角栄総理が中国へ行ったのは翌9月。難しい交渉だったが、『日中共同声明』が発表されて、国交正常化の扉が開いた。1972年のことだから、すでに51年になる。大きな交渉ごとはタイミングや、登場人物の個性をはじめ、さまざまな要素がうまくマッチしてまとまる。竹入メモがなければ、違った展開になっていただろう。

そのメモを手に帰国した人物が亡くなった。このコーナーでは、今年も日中関係の難しさを何度も指摘してきた。竹入メモから半世紀が経過して、日中双方のリーダーも代わり、考え方も変わった。

ただ、いがみ合っているだけでは前には進まない。そんな時は「最初に井戸を掘った人」「汗をかいて必死に走り回った人」の努力を検証してみて、今、やるべきことを考えてみてもよいのではないか。


◎飯田和郎(いいだ・かずお)

1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。