◆「出身成分」がよくなかったと語る夫人
1980年、18歳で軍の歌舞団に入った。先ほど紹介したインタビューではこうも答えている。
「私はとても幸運でした。ちょうど改革・開放が始まった時でしたので、出身成分によって選抜されるという方法がなくなりましたから」
「出身成分」とは、社会主義国でいわゆる家庭の階級を指す。かつては資産家や地主もよくないとされてきた。以前、日本や欧米の国々と関係があったといものも。彭麗媛さんは続けてこう話している。
「父や祖父の出身はよいものではなかった。母もそうでした。また、叔父が台湾にいましたから。だから、本来なら軍には入れなかったでしょう」
どのように「出身成分」がよくなかったかを彭麗媛さんは語っていないが、父親は文革大革命の時に迫害を受けている。また、台湾にいる叔父とは、共産党との内戦に敗れた国民党の関係者なのだろう。「改革・開放」前だったら、共産党の人民解放軍に、自分はとても入れなかったということではないか。
その彼女がやがて、習近平氏と出会った。習近平氏が中国南部、福建省アモイ市の副市長だった1987年に2人は結婚。彭麗媛さんは結婚後も軍の歌舞団の歌手として活躍してきた。地方勤務が長かった夫の習近平氏は、ほとんど無名だったが、妻は「国民的人気歌手」。彭麗媛さんを知らない中国人は当時からいない。
先ほど紹介したテレビのインタビュー番組は2007年の放送。習近平氏が中央に躍り出る前のことだ。さすがにファーストレディになってからは、メディアのインタビューを受けることがなく、軍の歌舞団にも出演していない。本人もまさか夫が最高指導者になるとは思わず、インタビューを受けたのだろう。
◆波の中で生きてきたゆえの決意
習近平氏のひとつ前の国家主席、胡錦涛氏と、夫人とは大学のクラスメートだ。どちらかというと、地味な感じの女性だ。彭麗媛さんはまったく対照的なファーストレディといえる。
「改革・開放」政策の前なら、かなえられなかった人民解放軍の歌舞団に入り、そこで国民的スターになった。そのステータスもあって習近平氏と知り合い、結婚した。そして、夫が中国のトップ、自分はファーストレディになった。彭麗媛さんの半生をたどると、彼女も中国現代史の移り変わり、権力を巡ってのせめぎ合いという、様々な波の中で生きてきたことがわかる。
彼女は一冊の本になりそうな半生を歩いてきた。片や、夫の習近平氏も若い時には文化大革命によって、副首相だった父親が失脚するという苦難を味わった。「最高権力の座にある夫を、妻として全力でサポートする」――。ベトナムを訪問した時の立ち振る舞い、身のこなしを見ていると、彼女の決意を感じた。岸田総理夫妻とは、決意のほどが違うようにも見える。
そういう視点で、ファーストレディを観察するのもユニークだ。きょうは、国民的スターだった、習近平主席夫人の果たす役割を考えてみた。
◎飯田和郎(いいだ・かずお)

1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。














