戦中戦後の貧しい時代、100人前後の乳児が放置されて死亡したとされる悲惨な事件をご存じでしょうか。その名を「寿産院事件」といいます。本来なら新しい生命を育てるべき施設でなぜこのような事件が起きたのでしょう。
(アーカイブマネジメント部 疋田 智)

戦中戦後「特殊産院」という事情

東京都心・瀟洒なビルが建ち並ぶ外苑東通り沿い近辺に、かつて「寿産院」という施設がありました。この産院では、1944年4月から1948年1月までのおよそ4年の間、乳児85人〜169人(後述の理由により判明しません)が餓死、凍死していたのです。

この近辺に「寿産院」があった名残は、現在はほとんどありません。

寿産院は1943年に設立されました。子供を育てられない母親から子供を引き取るための「特殊産院」と呼ばれる産院で、当時は認可されていたのです。2000円から1万円の養育費を母親からもらって赤ちゃんを引き取り、逆に、赤ちゃんが欲しい人には300円から500円で売り渡していました。

右の柱に「妊産婦乳幼児預かり」とありますが、実際には「預かり」ではありませんでした。

人工妊娠中絶が禁止されていたために、望まぬ妊娠に悩んでいた女性は多く、そうした女性がこの寿産院を訪れていたといいます。

摘発時の寿産院

しかし、この寿産院はまっとうな特殊産院ではありませんでした。
必要量の食事を与えていませんでしたし、風呂にも入らせず、赤ちゃんの泣き声が常にやまなかったといいます。

預けられた乳児たちは、すぐに痩せ細っていきました(救出された乳児)。

ここで働く助産師たちは、もっとミルクや食べものを与えるべきだと主張したそうですが、院長の石川ミユキ(故人)に「言われたとおりにしていればいいのだ」と、すべて却下されました。赤ちゃんが病院にかかるのは死の間際だけ。死者ばかりが異様に多い産院でした。

戦後の子供たちがおかれた環境は劣悪でした。

1948年、出入りの葬儀屋が警察官に呼び止められたことから事件が発覚。ほとんどすべての子供が餓死(栄養失調)か凍死だったといいます。生き残って見つかったのが7人。そのうち2人は翌日に亡くなりました。

寿産院で発見された7人の乳児