「鬼産婆」の意外な素顔

ひとよんで「鬼産婆」主犯・石川ミユキ元院長は、当時の女性としては驚くほど高学歴でした。東京帝国大学医科大学附属医院・産婆講習科を卒業した後、助産師の資格をとり、当時、日本助産婦看護婦保健婦協会理事、牛込助産婦協会会長などの肩書きを持ちました。

連行される石川ミユキ容疑者(左・当時)。

子供を置いていく人から金を取りました。
子供を買う人からも金を取りました。
行政からも補助金と配給品が出ました。配給品は闇市に横流ししました。
それは「鉄板のビジネス」であるかのように見えたことでしょう。

共同経営者で夫の猛容疑者(当時)は、乳児が亡くなる際に葬儀酒2本がもらえるので「1本はワシがいただき、もう1本は闇市で売っていた」と周囲に語っていたそうです。

共同経営者の夫・石川猛容疑者(前列左・当時)。*出典:米国国防総省

逮捕時にミルク4.5kg、砂糖5.6kg、コメ22.5kgが押収されました。夫妻はこのビジネスで荒稼ぎし、その利益は100万円、現在の価値にして7億円を手にしていたといいます。

逮捕、そして裁判へ

被害者の正確な数は分かっていません。「いなくなった乳児が169人」という総数こそ分かりますが、赤ちゃん全員の行方が把握できず、警察はその中の84人が死亡、検察は27人死亡と見積もり、裁判で認められたのはわずか5人でした。これは無戸籍児が多く、親も名乗り出ないため、正確な数値が把握できないためでした。
裁判で、石川夫妻は「自分たちは慈善事業だった」「誠心誠意やっていた」「母親が勝手に子供を置いていってしまった」などと証言。判決はミユキに懲役4年、猛に懲役2年でした。

寿産院の内部(家宅捜索後)。この部屋などで乳児は亡くなっていったのでしょうか。

量刑の異様な軽さは、被害者の数が明確に分からなかったこと、親たちが自らの恥として極力隠そうとしていたことが影響したと言われています。
また死亡診断書を書いた医師などに、数か月の禁錮または懲役の判決が出ています。

その後、ミユキ元院長は刑期を経ずして釈放されました。行商から再び身を起こし、不動産業などで成功をおさめています。
1987年に90歳で死亡。すでに東京は狂乱のバブル時代に入った頃でした。