◆厭世家の医学生が見た「昭和20年」
赤紙(召集令状)を受け取って戦っている人たちがいっぱいいる中、自分はただ傍観して東京で暮らしている。戦争マンガなのに、戦地じゃなく日本国内でのことばかり。暮らしは、貧しい中にどんどん物資が少なくなって、食も困っていく中、兄のように仲良くなっている先輩の夫婦の家に下宿する暮らしが静かに描かれています。
大根の輪切二寸ずつ、その値三銭なりしと。
かくて日本に不機嫌と不親切と不平とイヤミ充満す。
みずから怒り、みずから悲しみつつ、国民はみずから如何ともする能わず。人間は、実に馬鹿なり。(1巻86ページ)
自分の日記ですから、少しひねくれている様子がそのまま書かれています。そして、だんだん戦争が激しくなってきます。空襲が来てもそのまま布団をかぶって寝ていたことも。
多分、当時はこんな感じだったと思うんですね。空襲が始まったばかりの頃はもう大騒ぎしていても、「またか」という感覚で「もういいや」「疲れているし、寝ちゃおう」と。本当にそういう日常生活だったんだろうな、とすごくリアルに感じられます。
僕らもそうじゃないですか。同じ状況が続くと「まあ、いつものことだ」と。新型コロナの時もそんな感じがあったでしょう。初めの頃は非常に敏感だったのに、だんだん麻痺してきて、「毎回やっててもねえ」なんて思ったりして。マンガにはそういう「人間らしさ」が現れている気がします。
◆戦争の熱狂に巻き込まれ
ところが厭世家でニヒルな青年が、だんだん戦争に心の中で参加していこうとします。それは多分、ただ傍観していることの「申し訳なさ」みたいなものがあったのかなと思います。
冷静に アメリカ人を一人でも多く殺す研究をしよう。
一人は三人を殺そう。二人は七人殺そう。三人は十三人殺そう。
こうして全日本人が復讐の陰鬼(いんき)となってこそ、この戦争に生き残り得るのだ。(1巻136ページ)
そうかと思えば、東京大空襲(3月10日)を経た後の4月、新橋演舞場で6代目尾上菊五郎の芝居を見ていて、戦争の最中でも、日常生活はあるんです。そして昭和20年7月に、長野県飯田市に大学ごと疎開をします。日記にはこう書いています。
吾々(われわれ)はすでに嵐の中にいる。個人はもはや自分で自分をどうすることもできない。ただ運命のなりゆきにまかせるのみだ。(2巻104ページ)
◆校長「日本をこの惨苦に追いこんだものは何か?」
物資もないし、食料の調達や、地元の人たちの炭焼きのお手伝いに時間を使っていく感じです。そこに校長先生がやってきて、みんなの前でこんなふうに述べたそうです。
この未曾有の国難に際し
諸君にはそれぞれ煩悶があろう
私も 夜眠られないことがある
今 学問するのに 何の意味があるのか
しかし 私は思うのです
学問こそが愛国の道と……!!
日本をこの惨苦に追いこんだものは何か?
それは頭だ この頭なのだ!
我らは学問しよう 研究しよう
飯田が焼かれたら さらに山に入ろう
私はどこの果てまでも 諸君とともにゆく
どんなことがあろうと 日本を忘れるな
日本を挽回するのは諸君の外に誰があろう!
みんな身動き一つせず。
校長、実に偉大なり。
(2巻136ページ)
そして、校長先生はマンガの中で続いて「断言しておきますが、日本は近い将来、恐ろしい変化が起こります。大転回が参ります。その時に頼りになるのは自分自身だけですよ」と言うのです。風太郎青年は大きな影響を受け、書き残しているわけです。














