ミャンマーで軍事クーデターが起きて、まもなく3年。当時、出入国在留管理庁(入管庁)は、日本に住むミャンマー人を対象に「緊急避難措置」を打ち出し、難民とは認定されなくても在留と就労を認める対応を進めてきた。しかし、今なお救いの手から取り残された人がいる。年の瀬に向かう街で、軍事政権への抵抗を続ける1人の男性を取材した。(元TBSテレビ社会部長 神田和則)

「みんな認められたのに、何で僕だけ…」

「本当に(ミャンマーには)帰れない。危ない。自分の人生の半分以上を日本で過ごしている。友達や仲間は、みんな(在留が)認められた。何で僕だけが…。悲しい」

JR高田馬場駅近くの路地を入ったミャンマー料理店で、マウンさん(仮名)の話を聞いた。

マウンさんは40代半ば、現在、退去強制令書が出ていて、一時的に収容を解かれる「仮放免」の立場にある。3カ月ごとに延長のため入管に出頭しなければならない。就労は禁止され、健康保険にも加入できない。

「ビザがない、仕事はできない。お金がかかるので歯の治療もできない」

働いてお金を稼ぎ、自立するという、人としての尊厳を奪われた状況にある。

入管庁はクーデターから3カ月後の21年5月、「緊急避難措置」を発表した。ミャンマーの情勢不安を理由に、日本での在留を希望する人に在留や就労を認めるとした。「難民申請者については迅速に審査し、該当性がある場合は適切に認定、不認定の場合でも緊急避難措置として在留や就労を認める」「不法滞在中であっても、在留特別許可が相当な方には緊急避難措置と同様の対応をとる」との方針も示した。

22年12月末時点で9527人に「特定活動」の在留資格が与えられた。しかし、この中にマウンさんは含まれていない。

「緊急」であったはずの「避難措置」なのに、なぜいまだに適用されないのか。その理由は、マウンさんが難民認定申請中で、結果が出ていないことにある。

マウンさんの半生をたどる。

「ミャンマー政府の人権侵害は、クーデターの前も同じだった」

マウンさんは1996年、ヤンゴンの大学に入学し工学を専攻した。だが軍事政権下で、まともな授業は受けられず、2002年、韓国を経て日本に入国した。06年、不法在留の容疑で逮捕、執行猶予付き有罪判決を受けて退去強制令書が発付され、入管に収容された。07年、「仮放免」となる。

ミャンマーは11年に民政移管されたものの、議会の4分の1は国軍の最高司令官が指名する「軍人議席」が占めたほか、軍は国防相や治安・内務相などの任命にも関与し、影響力を維持した。

マウンさんは日本で国軍批判デモや雑誌の編集と発行、講演会の開催などに関わってきた。このため「帰国すれば迫害を受ける」と4回にわたり難民申請した。しかし、すべて退けられたことから国を相手取り裁判を起こし、15年3月に出された4回目の難民不認定処分の取り消しを求めた。

2年半に及んだ裁判中にクーデターが発生した。マウンさん側は、その事実も踏まえて主張を展開した。

大きな争点が2つあった。

1つは「クーデター前のミャンマー情勢を、どう見るのか」(出身国情報)

もう1つは「難民申請者が、迫害する側(国軍)から狙われていなければ(個別に把握されていなければ)難民ではないとする考え方が正しいのかどうか」(個別把握説)だ。

まず1つ目の「出身国情報」について、マウンさん側は「民政移管された当時でも国軍の影響力は強く、報道関係者や文化活動への弾圧が続いていた」「国連人権理事会調査団の報告書が少数民族に対する人権侵害や虐待を明らかにしている」などを挙げて、「クーデターの前後を問わず人権侵害の実態に変わりはない」と主張した。

2つ目の「個別把握説」について、マウンさん側は「難民申請者が国軍から個別に目を付けられているかどうかではなく、その人の政治的行動を軍が知った場合、どんな危険が予想されるのか、それによって難民かどうかを判断すべきだ」「クーデター後の残虐な拘束、拷問、殺傷に鑑みれば、帰国の選択はあり得ない」と主張した。

ちなみに、「個別把握説」について入管庁は、入管法改定案への批判が噴出した今年の通常国会で、「わが国では、そもそも迫害を受ける恐れの要件の該当性判断にあたって、ご指摘のような考え方(注・個別把握説)は採用していない」と答弁した。しかし、マウンさんの裁判で国側は繰り返し「ミャンマー政府が原告に殊更に注目し、迫害の対象とするとは到底認められない」と主張していた。まさに個別把握説だった。

裁判の結果は敗訴。判決は、国軍に保障された特別な地位や少数民族への弾圧は認めた。しかし、新政府の下、民主化が進められ、政治犯の恩赦や表現の自由などの面で「21年のクーデター後とは一線を画していたと言うべき」と述べた。

そのうえで、当時の民主化の状況から「仮にマウンさんの活動が当局に知られたとしても、迫害される状態にはなかった」と訴えを退けた。