幸子さんの絵は、遺影代わりとして仏壇に供えています。そしてもうひとつ…。100枚以上描いた絵の中で、一番大事にしている絵があります。

行方不明者と題された絵には、幸子さん、母親、祖母の姿があります。3人とも遺骨すら見つかっていません。

尾崎稔さん
「これは本当に腹が立って描いた。どこで泣きよるんかわからん、どこで死んだのかもわからん。一番大事なんじゃ思うよ。死んどるんよ、みんな。わしらのように生きとるんじゃない、けがしたっていっても、死んだことを考えれば大したことはないんよ。一方は命が切れとるんよ」
「怒り。絵を描いているのは、みな怒りで描いとる」

あの日から78年が過ぎました。ロシアによるウクライナ侵攻を契機に「核戦争」も現実味を帯び尾崎さんは危機感を抱えています。

尾崎稔さん
「戦争で負けそうになったら(核兵器を)落とすよ、それが戦争じゃけぇ。そこまでいかんようにするために、戦争せんように、戦争せんように、みんなが争わないように話し合わないといけない」

尾崎さんは次の絵の制作に取りかかっていました。正確に描くために、まず当時の地図や文献なども確認します。

同級生の家に不発弾が落ちたこと。戦後、被爆者から病がうつるといったデマが流れたこと。そして、奪われた日常…。描きたいものは頭の中に浮かんでいます。

尾崎稔さん
「頭を整理させて、もうちょっと考えてみる。また、ええものを考え出して、1枚2枚と」

年が明けると92歳になります。まだまだ筆を置くつもりはありません。

■新着資料展
原爆資料館東館1階で来年2月27日まで開催